織田信長(二十七) 安土城造営

隠居

長篠の合戦で武田勝頼を破り、長島で、越前で一向一揆を破り…もはや信長の敵は石山本願寺を残すだけとなりました。天下一統へ、はっきりともう、道が見えてきました。

天正3年(1575)11月には、権大納言兼、右大将に任じられます。これは、将軍にも等しい扱いでした。源頼朝が右大将。足利尊氏が大納言だったためで、信長もいよいよ武家の棟梁…将軍、として認められた形です。

まだ足利義昭は将軍のつもりで紀伊に潜伏していましたが、天下の実権は信長にあることは誰の目にもあきらかでした。

まさに権力の頂点。

覇道の成就。

ところが、

「余は隠居する」

「は?」「はあ!?」

この時点で、信長は嫡男の信忠に家督を譲ってしまいました。岐阜城も信忠に譲ってしまいました。つまり、信長はみずから無職・無一文になったのでした。

なぜこの時期に…

誰もが不思議がったでしょう。しかし信長の考えは、右大将だの権大納言だの…そんな地べたをはいずり回るような過去の権威よりも、はるか先に行っていました。

安土城

天正4年(1576)正月、信長は、丹羽長秀を奉行に命じ、琵琶湖のほとりの安土山に新しい城を築き始めます。

安土城です。

仮の屋敷ができると、2月にはもう信長自身が安土に移ってきました。

それまでの岐阜城は京都に遠く、京都までの往来が大変でした。今や権大納言・右大臣となった信長はいっそう頻繁に京都に行き来する必要が出てきます。岐阜城ではいかにも不便でした。

そこで、岐阜城と京都のほぼ中間に位置する、安土山に信長は目をつけました。

切り立った安土山の山頂に、天主・本丸・二の丸・三の丸・黒金門などが狭い空間の中にムダなく配置されていきました。

(安土城のみ「天主」。ほかは「天守」と書く)

安土山は北・西を琵琶湖に面し、麓には琵琶湖水運のための港が築かれました。また、東海道・東山道・北陸道のいずれにも近く、交通の要衝です。

安土城下には楽市・楽座を開き、商業を振興します。安土城下は、城下町としてがぜん賑わってきました。

解説:左大臣光永