長篠・設楽原の合戦

こんにちは。左大臣光永です。

先日、よく晴れたので広島の鞆の浦に行ってきました。とても景色のいい港町で、瀬戸内の風情にあふれていました。

大伴旅人が歌に詠み、足利義昭が亡命政権を作り、平賀源内が訪れ、朝鮮通信使がその景色をほめたたえ、幕末には坂本龍馬の「いろは丸」事件の舞台となりました。歴史の深い町で、得るものが多かったです。

本日は「長篠・設楽原(したらがはら)の合戦」について語ります。

天正3年(1575)5月21日、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼軍の間で戦われた合戦です。織田方の鉄砲の運用がたくみであったこと、武田方の騎馬隊の活用で知られていますが、詳細は謎に包まれています。

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この戦いで武田家をささえた重臣たちの多くが命を落とし、武田家衰退のきっかけとなりました。

追い詰められる武田勝頼

巨星・武田信玄の没後、残された勝頼と武田家臣団には過酷な運命が待っていました。それは信玄の没する以前から、織田信長が勢いをのばしていました。

朝倉義景、浅井長政、三好義継を滅ぼし、伊勢長島の一向一揆を鎮圧し、将軍足利義昭を京都から追放し、確実に信長は勢いをのばしていきました。

武田勝頼は、これら同盟者たちが次々と信長に滅ぼされるのを横目に見つつ、何ら軍事援助が行えず、ただ見ている、というありさまでした。

これでは武田の安全保障の盟主としての地位がガタ落ちです。

「なんとかせねば」

勝頼と武田家臣団は追い詰められていました。

武田勢、三河侵攻

そういう背景のもと、天正3年(1575)4月、武田勢は三河に侵攻します。

4月15日から三河足助城の包囲にかかり、19日、足助城を落としました。

29日には東三河最大の徳川方拠点・吉田城の包囲にかかりますが、城下町を焼き払っただけで、すぐに軍勢を北へ向かわせます。

長篠城を攻撃

5月1日から、長篠城の包囲にかかります。

長篠城は武田信玄の晩年に一度、武田の城となりましたが、その後、徳川に奪い返されました。なので今回勝頼は、長篠城を奪い返しに行ったものです。

長篠城(愛知県新城市長篠)は豊川(とよがわ)と宇連川(うれがわ)の合流点に位置する、天然の要害です。

長篠城
長篠城

城代をつとめる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)は、天正元年9月の長篠合戦で武田勝頼を裏切って徳川についた奥平貞能の息子です。なので、負ければ武田方に処刑されることは確実。

たとえ降伏しても受け入れてもらえるはずがない。それだけに奥平信昌は、死にもの狂いで長篠城の守りに当たっていました。

とはいえ武田方1万5000。奥平方守備兵は、わずかに500。圧倒的な戦力差です。

武田勝頼は長篠城北方1キロ・医王寺山に本陣を敷き、東の鳶ヶ巣(とびがす)山に付城(攻撃の拠点として敵城の近くに築く城)を築いて長篠城を攻めました。

長篠城は武田方の猛攻の前に、しだいに追い詰められていきました。

織田信長の出陣

「救援を!長篠城を救ってくだされ」

岡崎城の徳川家康は長篠城の危機を見て、岐阜の織田信長に救援を求めます。

信長はちょうど伊勢長島の一向一揆を鎮圧した所で、兵力に余裕がありました。

「武田勝頼。徹底して攻め滅ぼしてくれん」

5月13日、信長は長男信忠とともに3万の軍勢を率いて岐阜を出発。この日は熱田で一泊。翌14日、岡崎城に入り、翌日、家康と会って作戦を練ります。

5月18日。織田・徳川連合軍は長篠城の西約4キロの設楽原(したらがはら)に到着。

5月18日、織田・徳川連合軍、設楽原に到着
5月18日、織田・徳川連合軍、設楽原に到着

織田・徳川連合軍は東向きに武田勝頼軍と向かい合う形となりました。

「堀を掘れーーーっ!!」

すぐに織田・徳川連合軍は作業に入ります。

連合軍陣地の東側、つまり武田勝頼軍側に、北から南に連子川という細い川が流れていました。この連子川の手前に、幾重にも空堀を掘り、掘った土で身かくしを作りました。そして馬の突撃をふせぐための柵…馬防柵(ばぼうさく)を築きます。

馬防柵。馬の突入をふせぐための柵です。

また信長は細川藤孝と筒井順慶から、優秀な鉄砲衆を動員させていました。その数は1000とも3000とも言われます。

一方、武田勝頼は。

一部の兵力を長篠城攻めのために残し、自ら主力部隊を率いて寒狭川(かんさがわ。豊川の上流)を越え、西に向かって陣をしきました。織田・徳川連合軍と武田勝頼軍との距離、二十町(2キロ)。

織田・徳川連合軍、武田軍対峙
織田・徳川連合軍、武田軍対峙

酒井忠次別働隊

20日夜。

信長は、家康家臣の酒井忠次を大将として4000の兵を率いさせ、長篠城東の武田方・鳶ヶ巣山砦の攻撃に向かわせます。

5月20日、酒井忠次隊、鳶ヶ巣山砦を攻撃
5月20日、酒井忠次隊、鳶ヶ巣山砦を攻撃

21日朝。

酒井忠次軍は鳶ヶ巣山砦への攻撃を開始。

ターーーン、タターン、タターーーン

いっせいに鉄砲を撃ちかけます。敵は正面の長篠城とばかり思っていた鳶ヶ巣山砦は大混乱になり、すぐに砦は落ちました。

「それっ、長篠城を救え!」

勢いを得た酒井忠次軍は長篠城になだれこみます。

武田勝頼の本体は織田・武田本体との決戦のためすでに寒狭川を越えて西に行っており、長篠城攻めの武田勢はわずかでした。酒井忠次軍によってあそこ、ここに打ち破られ、鳳来寺へ向けて撤退していきます。

設楽原の合戦

一方、主力軍の戦いは5月21日早朝から始まります。

信長は家康が本陣を置いた高松山に陣取り、敵の出方を冷静に見計らっていました。

「命令が下るまでけして動くな」

そう指示してありました。鉄砲隊千挺を並べ、佐々成政・前田利家・野々村正成(ののむら まさなり)・福富秀勝(ふくとみ ひでかつ)・塙直政(ばん なおまさ)を指揮官として、ついで足軽隊を敵陣近くまで出して徴発させました。

「おのれ小癪な。戦国最強・武田騎馬軍団の武威、思い知れ!!」

ばかかばかかばかかばかかーーーっ

武田方一番手

山県昌景隊が攻め太鼓を打ち鳴らし、織田・徳川の陣へ突撃してきます。

「引き付けろーー。もっと引き付けるんだーーっ」

ばかか、ばかか、ばかか、ばかかーーッ

「てーーーっ」

ターン、タン、タン、ターーーン

居並ぶ鉄砲隊、いっせいに射撃。

ぐはっ。

ぎゃああ。

どたーーー

ばたーーーー

武田の騎馬隊はさんざんに討ち殺されました。

二番手。

武田信廉(のぶかど)隊。この人は武田信玄の弟です。

どかか、どかか、どかか、どかかーーーーっ

つっこんで行くも、

ターン、タン、タン、ターーーン

居並ぶ鉄砲隊が、いっせいに射撃。

ぐはっ。

ぎゃああ。

どたーーー

さんざんに討ち殺され。

三番手・上野の小幡一党。

四番手・武田信豊隊。

五番手・馬場信春隊。

いずれも鉄砲の一斉射撃の前に、近づくこととてかなわず、退きました。

6時間の戦闘の末、午後2時ころ、武田方の負けが大方決まり、武田方はボロボロになって鳳来寺まで退いていきました。

大将武田勝頼も父信玄より伝来の諏訪法性の甲を取り落して逃げ出すほどのあわてぶりでした。

山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・原昌胤…

武田家歴戦の家臣たちが、この戦いで死にました。

天正3年(1575)5月21日、長篠・設楽原の合戦。この戦いで武田勝頼と武田家臣団は大きくその勢力をそがれ、以後、滅亡への道をたどることとなります。

告知

講演CD「菅原道真の生涯」
http://sirdaizine.com/CD/SemiCD1-Michizane.html

菅原道真の出生から、少年時代・青年時代・宇多天皇に重く用いられ、右大臣にまで至るも、無実の罪を着せられ、大宰府に流され、死後、怨霊として恐れられ、やがて学問の神様に至るまで語っています。

2019年6月に京都で行った講義の録音です。

解説:左大臣光永