織田信長(二十) 十七ヶ条の異見書

信長が北近江で戦っている間、足利義昭も自分の権限を高めるべく、いろいろ策謀していました。決裂した織田信長と本願寺の関係を修復すべく、武田信玄に仲裁を依頼したり、長年にわたって川中島をめぐって争っていた武田信玄と上杉謙信の和睦にも力を尽くし、何とか仲直りできないかと、交渉を持ち掛けていました。

こうしたことは別に世の中を平和にするためとか、戦国の世を終わらせるとか立派な考えでやったことではなくて、少しでも将軍としての権威を高め、信長と対抗しようというライバル心から出ていました。

信長は義昭のこうした動きを「まずい」と見ます。

「このへんで釘をさしておかねばなるまい」

元亀3年(1572)9月、信長は足利義昭に十七ヶ条の異見書を突きつけます。

十七ヶ条にわたって、足利義昭がどんなに酷い人物か。将軍としてふさわしくないか。さんざんに書きまくった文書です。朝廷への参内がおろそかになっている。また、諸国の大名たちにしきりに書状を送って、馬などを無心している。長く仕えてきた者よりも新参者を重んじているとか、信長に親しい者に対してツラく当たっている…そんな話に始まり、

だんだん義昭の人格攻撃に入っていきます。難癖、といってもいいような内容が、ずらずらと十七ヶ条も並びます。最後の十七条目に、まとめとして、

あらゆることに置いて、義昭は道理も外聞もはばからない。下々の土民までも「悪しき御所」と言っている。6代将軍足利義教が「悪御所」とその恐怖政治によって呼ばれたけども、よくよくわきまえよ。…そう結んでいます。

6代将軍足利義教は恐怖政治を行い最期は臣下の赤松満佑によって暗殺されました。その義教の名を出していることは、お前もうかうかしてると暗殺されるぞという脅しです。とにかく、

お前は将軍としてダメだと、完全否定しているわけです。しかも、信長はこの十七ヶ条の異見書を足利義昭個人とその側近たちだけに見せたのではなくて、広く世間に流通させようとしました。遠く甲斐の武田信玄にまで伝わっています。奈良の興福寺にも伝わっています。広く天下にこの文章を流布させて、いかに足利義昭がダメな将軍か、積極的に宣伝しようとした形跡があります。

解説:左大臣光永