織田信長(十七) 志賀の陣

浅井・朝倉連合軍、京都に進撃

本願寺の動きに連動して、浅井・朝倉連合軍が、近江の宇佐山城(現滋賀県大津市)を攻撃したのです。これは南方で織田信長が本願寺に苦戦するのを見ての軍事行動でした。もちろん、本願寺と浅井・朝倉と、気脈を通じ合って、共に信長を包囲しようとしたものです。

近江の宇佐山城は森可成が守っていましたが、そこへ、

「仏敵・信長の城を攻めろーーーーッ!!」
「一向一揆ナメんなやァ!!」

浅井・朝倉軍の中には10000の一向一揆勢も加わっていました。本願寺顕如の檄文によって立ちあがったものでした。

わあーーーーー
わあああーーーーーーーーーーーーー

囲まれた宇佐山城。森可成は、

「くっ…持ちこたえられん。
こうなったら直接打って出る!」

ドカカ、ドカカ、ドカカ、ドカカ

森可成、敵陣の中に突っ込んでいき…

壮絶な討ち死に。

浅井・朝倉勢は宇佐山城をさんざんに蹂躙すると、

山科・醍醐方面に進出し、町々に火を放ちます。

うわーーーーっ、きゃーーーーーっ

山科・醍醐の町々は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化しました。

京都・二条城の守備隊は、心細いことになっていました。

これでは京都が落ちる!

志賀の陣

知らせを受けて織田信長は、柴田勝家を先鋒隊として京都に向かわせますが、勝家は、

「私の軍勢だけではとてもムリです。
もっと援軍をよこしてください」

「ええい。援軍などどこにおるというのか!
いくらでも人数がわいてくるなら苦労はせぬ!」

ここに至り織田信長は三好三人衆攻めを断念します。9月23日。軍勢をいったん天満森(てんまがもり。現大阪市北区)に集め、京都に引き返していきました。足利義昭もそこについていきました。

さて京都を攻撃せんとしていた浅井・朝倉勢は…

「なに信長が戻ってきた?
平地で正面から戦ってやる義理は無い。
比叡山に上るぞ!」

浅井・朝倉連合軍は比叡山に陣を取ります。

そこで信長は延暦寺と交渉します。

「敵を引き渡せ。信長軍に味方せよ。
そうすれば延暦寺の所領地は保証する」

しかし。

延暦寺は信長の訴えを完全無視して、何の返事もしませんでした。

「おのれ山法師どもが。
やはり奴らはいつか滅ぼさねばならぬ」

延暦寺に対して怒りをたぎらせる信長。

これが翌年の比叡山焼き討ちにつながっていきます。

信長は大軍をもって比叡山のふもとに陣取るも、こちらからは手を出しかねていました。うかつに比叡山に攻め上れば、甚大な被害が出ることは明らかだったからです。双方、動けないまま、ニラミあいの内に三か月が経過します。

11月…12月となり、北国越前に拠点を置く朝倉義景は焦っていました。

「このまま冬になれば、本国との交通が遮断される。
補給線が絶たれて本国と切り離される。
何とかせねば」

一方、織田信長も焦っていました。

伊勢の長嶋で一揆が起こっていたのです。

双方、不安を抱えたまま不毛なニラミ合いを続けた結果、和睦しよう、ということになりました。

関白二条晴良(にじょうはるよし)と将軍足利義昭が仲立ちして、織田方と、浅井・朝倉方との和睦が成立しました。

朝倉勢は越前へ。浅井勢は近江へ。信長は京都へ引き返し、志賀の陣と呼ばれるこの戦いは幕を下ろしました。

解説:左大臣光永