織田信長(十四) 越前侵攻

越前 朝倉攻め

永禄13年(1570)4月20日、信長は以前から対立していた越前の朝倉義景を討つために3万の軍勢を率いて出陣します。信長軍3万は琵琶湖の西岸を北上し、若狭に入り、若狭・佐柿(さがき)城(現福井県三方郡美浜町)にいったん落ち着くと、軍勢を整え、敦賀に入り、朝倉氏の居城である手筒山城(現敦賀)を攻めます。

永禄13年(1570) 越前 朝倉攻め
永禄13年(1570) 越前 朝倉攻め

ワアーーーッ、ワアーーーッ

この時の戦いは、織田方、朝倉方、双方に大変な被害が出ました。しかし信長は徹底して手筒山城を攻め落とします。

「ぐぬぬ信長の勢い、恐るべし」

朝倉方はひるんだので、越前国内の他の二つの城、金ヶ崎城(現敦賀市)はカンタンに落ち、疋壇(ひきだ)城(現敦賀市)は戦わずして降伏しました。

このまま木ノ目峠を越えれば、越前朝倉氏は目の前!

「よし。この勢いで朝倉を攻めるぞ」

がぜん勢いづく織田信長。しかしここに、思わぬ知らせが入ります。

浅井長政 信長に背く

「浅井長政殿、ご謀反!」

「なんと!」

信長が妹のお市の方を嫁がせていた近江の浅井長政が離反し、朝倉義景と手を組んだのでした。

「そんなバカな。浅井が裏切るなど…!!あれは、わが義弟ぞ」

しかし次々と入ってくる知らせは、浅井長政が裏切ったことを裏付けるものばかりでした。

このまま木の芽峠の手前に陣取っていれば背後から浅井長政軍によって襲撃されるは必定!

「くっ…仕方が無い。撤退じゃ」

とはいえ、進撃してきた時の琵琶湖西岸コースを通っては浅井長政軍がひしめいているので、信長は別ルートを取ります。若狭街道を通って、ぐるっと北回りして京都に帰還するコースです。

「頼むぞ猿」

「ははっ命に代えましても」

信長は金ヶ崎城に木下秀吉・明智光秀・池田勝政(いけだかつまさ)を殿(しんがり)として配置し、わずかな供回りだけを連れて、

ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ…

琵琶湖の西側の朽木越(くつきごえ)を通って京都に戻ります。

永禄13年(1570) 金ヶ崎の退き口
永禄13年(1570) 金ヶ崎の退き口

世に言う、「金ヶ崎の退(の)き口」です。

こうして織田信長はほうほうの体で京都に帰ったのが4月30日深夜。従う者。わずか10人ほどだったと伝えられます。

「浅井長政、背く」

その知らせを受けて、

「うむ!よくやった!」
「我々も味方するぞ!」

それまで長らく信長と敵対関係にあった近江の六角氏も浅井長政に公然と味方します。近江は反信長一色に染まりました。

解説:左大臣光永