織田信長(十二)ルイス・フロイス

永禄12年(1579)信長は宣教師ルイス・フロイスと堺にて初めて面会します。ルイス・フロイスは永禄8年(1578)平戸から京都に来て将軍足利義輝の庇護のもと、キリスト教の布教活動をしていました。ところが。足利義輝が三好一族に殺害されると、立場が危うくなります。

京都の法華宗(日蓮宗)衆徒が三好党にせまって宣教師追放を訴えたのです。とうとう、宣教師追放令が出され、フロイスは堺に下っていました。そんな中、信長はフロイスと会見しました。

信長は、どこから来たか、年はいくつかと通り一遍の質問をした後、

「もし日本でデウスの教えが広まらないならどうする。国に帰るのか」

「いいえ。一人でも信者がいる限り、私はその人のために、日本に留まります」

「ほう!いい答えだ。戦と金儲けに明け暮れる日本の坊主どもにきかせてやりたいわ」

信長は大いに上機嫌になり、フロイスの日本滞在とキリスト教の布教を許しました。

フロイスは後年、ローマに当てた手紙の中で、信長の印象について書いています。

「この尾張の王は年齢37歳。背は高く、鬚は少なく、声はとても高い。武勇を好み、粗野である。正義と慈悲を重んじ、傲慢ではあるが名誉を重んじる。決断は心に秘め、戦術にたくみで、規律に従わない。部下の進言はほとんど聞かない…一同からたいそう畏れられ尊敬されていた…彼は日本の王侯貴族をことごとく軽蔑し、下僕に対するように肩の上からものを言った」

解説:左大臣光永