織田信長(六) 山口教継の離反

山口教継の離反

尾張一国をほぼ手に入れた信長。しかし、その立場は不安定で苦しいものでした。

東には駿河・遠江・三河を領有する今川義元。西には斎藤義龍がそびえ、清洲城の信長を脅かしていました。

そんな中。

以前から信長に抵抗していた鳴海城の山口教継(やまぐち のりつぐ)が、駿河勢を味方につけ、隣の大高城(名古屋市緑区)・沓懸城(愛知県豊明とよあけ市)を乗っ取りました。山口教継には今川義元の息がかかっており、それがわが領内深くに突き刺さっているのは、信長にとってはなはだ不本意なことでした。

鳴海城・大高城・沓掛城
鳴海城・大高城・沓掛城

一方、今川義元から見ると、山口教継は勲功第一のはずでした。信長の領土に深く食い込んで信長に脅威を与えたのだから。本来、一番に恩賞を与えるのが、当たり前です。

ところが。

今川義元は山口教継を呼び出し、教継が駿河に入ったところ、父子ともども切腹させました。

今川の敵である信長に打撃を与えて勲功第一のはずなのに。どうして山口教継が殺されなければいけなかったのか。謎です。一説には信長の調略とも言われています。

天沢和尚の話

この頃、天台宗の僧・天沢(てんたく)なる者が関東へ下る途中、甲斐国に立ち寄りました。すると「武田信玄公に挨拶をしていかれよ」と役人が言うので、ならばと甲府・躑躅ヶ崎館に信玄を訪ねました。

その時、武田信玄から信長のことを問われて、天沢は答えました。

「信長公なら、毎朝、馬の調練をなさいます。鉄砲の練習もなさいます。師匠は橋本一巴(はしもといっぱ)といいます。弓の師匠は市川大介。兵法は平田三位(ひらたさんみ)について学んでおられます」

「そのほか道楽などは」

「舞と小唄です」

「幸若舞か。それにも師匠がいるのか」

「友閑という者について舞われます。といっても『敦盛』の一番だけを、繰り返し舞われるのです。「人間五十年、下天の内を比ぶれば夢幻のごとくなり」…」

「小唄は、何を好むのだ」

「「死のふは一定、しのび草には何をしようぞ、一定かたりおこすよの」というものです。人は必ず死ぬのだから、後世に残す思い出として何をしようか。それをよすがに、私のことを思い出してくれるだろう、という意味でございます」

他にも色々話して、天沢は武田信玄の元を去っていきました。

解説:左大臣光永