毛利元就(十三) 第二次月山富田城合戦

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第二次月山富田城合戦

嫡男隆元を失った毛利元就は少し意地になってきたようです。

「必ず…月山富田城までたどりつき、城を落とすぞ!
それが死んだ隆元への手向けじゃ!」

荒隈(あらわい)城を出発した毛利軍は、月山富田城手前の白髪(しらが)城を落とすと、二年後の永禄8年(1565)4月から、再度、荒隈(あらわい)城を3万5000の兵を率いて出発。長年にわたって落とせなかった、尼子家最大の拠点・月山富田城攻略に乗り出します。

月山富田城北西の星上山(ほしかみやま。島根県松江市)に陣をしき、4月17日。毛利軍は星上山を下り、三手に分かれ富田川(とんだがわ)を渡り、月山富田城に襲い掛かります。

「攻め滅ぼせ!!」

わあーーーーーーーーっ

「させるな!!」

わあーーーーーーーーーっ

尼子義久軍は、総勢1万2000をもって毛利軍を迎え討ちます。

こうして第二次月山富田合戦が始まります。

死んだ隆元の嫡男、後に関ヶ原で西軍の大将を務める毛利輝元も、この戦いで初陣を飾りました。

「毛利に押されるな!必ず月山富田城を守りぬけ!!」

わあーーーーーーーーっ

防御側の尼子義久軍の中には、若武者・山中鹿之助の姿がありました。

「我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったエピソードはよく知られていますね。

難攻不落の月山富田城は、10日経っても落ちませんでした。

「正面からやってもダメだ。ならば」

毛利元就は正面攻撃を断念し、兵糧攻めに切り替えます。

まず、月山富田城背後にある兵站基地、伯耆の大江城(おおえじょう。鳥取県東伯郡)・江美城(えびじょう。鳥取県日野郡)の二城を落として、補給線を断ちます。

補給線を断ってから、あらためて月山富田城を包囲します。

尼子方の若武者・山中鹿之助は、

どかかっ、どかかっ、どかかっ、どかかっ、

毛利軍の中に一騎駆けし、

「我こそは尼子が家臣・山中鹿之助!
いざ尋常に勝負!!」

カン、キキン、カン、ズバア

どかーーーっ

毛利方の品川大膳を討ち取るという、勇ましい場面もありましたが、しかし、毛利方の強固な包囲網を突破することはできず、月山富田城内に閉じ込められた城兵たちは
「ううう…ひもじい…もうダメだあ…」

ついには椎の木をかじって食うというありさまでした。

永禄8年(1565)11月21日。万策尽きた尼子義久は降伏を申し入れます。
「うううぅ…尼子の命運もここに尽きた…」

「いいえまだ!山中鹿之助がおりまする!必ずや尼子の再興を!!」

気焔を上げる、山中鹿之助。

11月28日。月山富田城は落ちました。

山中鹿之助は月山富田城を落ち延び、京都に、ついで隠岐島に潜伏。尼子家再興を目指して活動を続けることとなります。

こうして毛利元就は中国9ヶ国に加え筑前の一部まで手に入れました。手に入れた領土は、備前・備中・備後・安芸・周防・長門・石見・出雲・伯耆、そして筑前の一部。山陰地方は吉川元春が、山陽地方は小早川隆景が分割して統治しました。

九州 大友攻め

最大の敵・尼子氏を倒した毛利元就。次なる敵は、九州の大友宗麟でした。

貿易港博多は、何としても手に入れたいところでした。永禄12年(1569)4月、毛利元就は軍勢を率いて吉田郡山城を出発。下関に入り、海を渡り九州に侵攻します。多々良浜や香椎で、大友宗麟方と激しい合戦が行われます。

大友宗麟方は、忠臣立花道雪(たちばな どうせつ)が奮戦するも、毛利軍の勢いに押され、立花城を放棄。追い詰められた大友宗麟は、窮余の策に出ます。

毛利に滅ぼされた山口の大内氏と、出雲の尼子氏と手を結び、共に毛利を討とうとします。

尼子の遺臣・山中鹿之助は、尼子の生き残り・尼子勝久(あまご かつひさ)をかついで、隠岐島に潜伏していましたが、大友宗麟は山中鹿之助を背後から援助。

山口では大内家の一族である大内輝弘(おおうち てるひろ)という人物を大友宗麟は保護していましたので、これに兵を与え、毛利の支配する山口を蹂躙させます。

大友宗麟を追い詰めた、と思っていた毛利元就。逆に追い詰められます。

「こうなったら博多はあきらめるしか無いか…」

毛利元就は九州・立花城で大友宗麟と対峙している吉川元春・小早川隆景に撤退を命じました。

毛利元就の最期

その後毛利元就は、大内と山中鹿之助ら尼子の残党を討伐しますが、この頃から体調が悪化していきました。

元亀2年(1571)3月、一時体調が回復した毛利元就は、吉田郡山城に知人を招き、花見の宴を設けます。その席で、

友を得てなほぞ嬉しき桜花
昨日にかはる今日の色かは

『名将言行録』

友を得たことで、いっそう桜の花を見るのが嬉しく思える。
今日の花の色のすばらしさは、昨日の花の色に代えることができるだろうか。いやできない。

またこの宴の席あたりだったでしょうか。孫の輝元・息子の吉川元春・小早川隆景に訓戒します。

「お前たち、今ある領国に満足して、けして天下を望むような野心を起こしてはならんゾ」

その後、体調がふたたび悪化し、元亀2年(1571)6月14日、吉田郡山城にて逝去。享年75。

翌日、遺骸は吉田郡山城山麓の大通院(だいづういん)で荼毘に付され、洞春寺(とうしゅんじ)跡として伝わる吉田郡山城山麓に葬られました。

安芸の一地方領主から10ヶ国所有の大大名にまで成り上がった、智将・毛利元就。幼くして父・母と死に分かれ兄とは切り離され、誰よりも家族のつながりを強く望んだ元就は、三人の息子たちによる毛利家の結束を強め、毛利家を中心に、吉川家・小早川家がその両翼を支える、毛利両川体制を形にしました。一方、敵に対しては容赦がなく、さまざまな権謀術数を駆使して、競争相手を次々と滅ぼし、葬っていった、毛利元就。その人の大往生でした。

その後の毛利家

その後、関ヶ原で毛利輝元が西軍の大将として徳川と敵対したため、戦後、毛利氏は周防・長門二国にまで削られます。120万石から32万石への減封です。

徳川への恨みは200年引きずり、幕末に、吉田松陰・高杉晋作・桂小五郎らが出て薩摩と手を結び、倒幕の原動力となったことは、よく知られている通りです。

解説:左大臣光永