毛利元就(九) 毛利元就と陶晴賢

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大内義隆、文化に没頭

このように毛利元就が安芸で毛利両川体制の確立に遁走している頃、毛利元就の主君・大内義隆は何をしていたか?

実は、前の出雲遠征が失敗してからというもの、大内義隆は戦国大名としての野心をすっかり失い、文化に傾倒していました。

もともと大内家は応仁の乱で京都を追われた文化人を受け入れ、文化的素養が大きくありました。

さらに、日明貿易・南蛮貿易によって外国の文化も入ってきます。

大内義隆は戦国武将としての「武」の部分を忘れ、連日、能を鑑賞し、詩歌管弦の遊びにふけり、政治のことはほったらかしになってしまいました。

すぐ隣の安芸では、毛利元就らが斬った斬られたの命がけの戦いをしている最中に、です。

京都から下ってくる公卿や、外国からの使節団を接待するために、重税が課せられました。歎き苦しむ民。

「こんなことが許されるものか!」

大内家重臣・陶晴賢は、主君・大内義隆のていたらくに対し、不満をたぎらせていました。

「領民は重税にあえいでいる。民をないがしろにして、
何が文化だ!戦国の世に、これではいずれ大内家は滅亡してしまうぞ」

その大内家で、筆頭家老として政治を取り仕切っていたのが相良武任(さがらたけとう)です。

相良武任(さがらたけとう)は、出雲撤退後の大内氏を取り仕切り、大内義隆から絶対的な信頼を得ていました。そして陶晴賢ら武断派の家臣たちと対立を深めていました。

大寧寺の変

「こうなったら、やるしかない。義のために、大内義隆を討つ」

しかし、陶晴賢はすぐには動きません。慎重な男でした。時間をかけて、山口領内の大内家家臣たちの切り崩し工作を行います。また安芸の毛利元就の元にも書状を送り、

これこれ、こういうことで、大内義隆はもうダメだ。義のために、民のために、私は立ち上がろうと思います。どうか元就殿、お力を貸してくださいと、呼びかけていました。

しかし、元就は陶晴賢の誘いに乗らず、無視し続けました。

陶晴賢が政権奪取の計画を練って策動している間、大内義隆は何の危機感も持たず、春は春の遊びに随い、秋は月見を楽しみ、詩歌管弦の風流にひたっていました。

天文20年(1551)8月、陶晴賢は5000の軍勢をもって山口を強襲。

「そんな、まさか晴賢が!嘘であろう」

この期に及んで大内義隆はまだ酒におぼれ、連日連夜、詩歌管弦の風流にふけっていましたが、実際に陶晴賢の軍勢が迫っているので、逃げ出さないわけにはいきませんでした。

山口を逃げ出し、長門・大寧寺に入り、自害しました。

大家義隆、享年45。「その町の王は大内殿といって、当時日本の最も有力な王であった」ルイス・フロイスにより、そうたたえられたほどの人物ですが、悲惨な最期となりました。

大内義隆が自害してから三日後、毛利元就は陶晴賢に相呼応して、安芸における大内方の拠点である東西条(ひがしさいじょう)頭崎城(広島県東広島市)に攻め寄せました。

頭崎城
頭崎城

「それっ、大内の残党を攻め滅ぼせ」

ワァーーワァーーー

「おのれ毛利元就!逆心陶晴賢と結び、主に逆らうとは…なんたる恩知らず!!」

こうして毛利元就は安芸の大内勢力を一掃しました。従来の定説では、毛利元就にとって陶晴賢のクーデータは寝耳に水のことで、「おのれ陶晴賢、主君を討つとはけしからん」と陶晴賢討伐に乗り出した、という話でしたが、

最近の研究では、毛利元就は少なくともこの時点では、陶晴賢と協力しあって、主君大内義隆を亡ぼした、ということがわかってきています。

陶晴賢は大内義隆の甥にあたる大友晴英(はるふさ)を、九州から迎え、大内家の当主としました。かの大友宗麟の弟です。もちろん単なるお飾りです。以後、陶晴賢が大内家の実権を握ります。

陶か?吉見か?

大内家の実権を握った陶晴賢でしたが、しだいに専横を強めていきます。大内家の重臣相良武任・杉重矩(すぎしげのり)を追放し、毛利元就とも領土問題で対立します。そんな中、石見津和野城の吉見正頼(よしみまさより)が、公然と陶晴賢に反旗をひるがえします。

そこで陶晴賢は、毛利元就に、書状を送ってきました。

「石見で吉見正頼と交戦中である。毛利からも援軍を送ってほしい」

また吉見正頼も毛利元就に書状を送り、ともに陶晴賢を討って下さいと持ち掛けてきました。

元就は隆元・元春・隆景、桂元澄以下を集めて評定します。

「さてどうしたものか」

陶につくか?吉見につくか?

しかし元就の腹は決まっていました。

「陶に着く」

「父上…ッ!」

反発がわきますが、しかし毛利元就の考えはこうでした。

「今、山口に出て行って戦えば、安芸は空になる。となれば、
出雲の尼子晴久が狙ってこよう。出雲の尼子と山口の陶晴賢…
二方に巨大な敵をかかえて、いかに毛利家が大きくなったといっても、
太刀打ちできるものではない。
ここは、いったん陶晴賢に着くそぶりをして、時間を稼ごう。
まして弱小勢力の吉見正頼につくなど、ありえぬ」

毛利元就はこう主張しましたが、嫡男の隆元が猛然と異議を唱えます。

「父上!何と情けないことをおっしゃいますか。
陶晴賢が吉見晴方を亡ぼした後、狙ってくるのは父上です。
父上が討たれれば、毛利家は終わりです。
吉川家も、小早川家も滅びるでしょう。
どうか父上、ご決断ください」

ふだんおとなしい長男の隆元に詰めら寄られて、さすがの毛利元就も、

「う…ううむ…」

と、うなります。

さらに、隆元は言います。

「陶晴賢は、主君を討った報いを必ずや受けるでしょう」

「だが…」

「陶晴賢と同じ天をいただくことなど、
とうていできません」

「わかった隆元…お前がそこまで言うならば、
毛利は、陶にはつかぬ」

「おお!父上」

ふだんおとなしく、線の細い長男・隆元でしたが、必死の説得によって、父元就を動かしたのでした。

「だが、時機は慎重にはかる必要がある」

毛利元就は、このハイリスクハイリターンの戦いを勝利するため、万全の下準備をします。来る陶晴賢との直接対決において、毛利元就がもっとも恐れたのは、背後の尼子晴久の存在です。

正面の陶晴賢と戦っている最中に背後を尼子晴久から襲われれば、一たまりもない。何としても陶晴賢と戦っている最中、尼子晴久を足止めしておく必要がありました。

ところでこの頃、偶然にも、出雲に内乱が起こっています。出雲の尼子晴久は、国の重臣たる新宮党の尼子国久・実久父子を謀反の疑いをかけて、一族もろとも粛清されました。これは毛利元就の謀略であった、毛利元就が新宮党が毛利元就と通じているという偽情報を流して、国久・実久父子を陥れたという説もありますが…真偽のほどはわかりません。

次回「毛利元就(十) 村上水軍」に続きます。

解説:左大臣光永