毛利元就(八) 出雲侵攻~第一次月山富田城合戦

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出雲侵攻

吉田郡山城合戦に敗れた後も、尼子氏にとっての不幸が続きます。天文10年(1541)11月、出雲の雄・尼子経久が月山富田城にて病に没しました。享年84。ここに至り、尼子家の権威は地に落ち、

「ああもう尼子はダメだ」

備中・備後・安芸・石見の国人衆はわらわらと尼子氏から離反し、大内に味方するようになりました。

「これぞ好機」

と見た大内義隆、翌天文11年(1542)より出雲遠征に乗り出します。今回の出雲遠征は大内義隆みずからが総大将となり、15000の兵を率いて行われました。

毛利元就は嫡男隆元とともに大内軍の一翼をにない、尼子方の支城を落とすことに活躍しました。

目指すは尼子の本拠地・月山富田城。

月山富田城
月山富田城

しかし、出雲攻めは予想外に手こずりました。

大内勢は各地で尼子勢に打ち破られ、山陰特有の寒気に悩まされ、さらに雪が降ってきます。行軍はたびたび中断させられます。

難攻不落の月山富田城は容易には落ちず、大内勢は各地で打ち破られました。

「やはりこの遠征は無謀だったんだ…」

逃げ出す者も多く出ました。

出雲撤退

そんな中、大内方の吉川興経はじめ数名が尼子晴久と通じ、月山富田城に入りました。大内勢を裏切ったのでした。

「まずい。裏切った者たちは、我々の補給線を絶つだろう。
これでは戦の継続など、できん!」

大内義隆は撤退を決意します。

毛利元就・隆元父子は、無念でした。

「くっ…やはり遠いな月山富田城は。
いつか必ず…たどりついてみせる」

「父上、必ず、毛利の力で、成し遂げましょう!」

「そうだな隆元…いつか必ず」

「よし。大内が撤退を始めたか。追撃せよ!!」

ここぞと尼子勢は、撤退する大内勢に襲い掛かります。あそこ、ここに打ち破られる大内勢。撤退戦のさなか、義隆の養嗣子・義望が、船に乗ろうとした所、船が転覆してしまい、溺死してしまうという場面もありました。

大家家一の家臣・陶晴賢は、敗走中、飢えに苦しむ兵士たちを見かねて、米を10倍の値段で買って、兵士たちにほどこしました。

その間、陶晴賢自身は、魚の腸をすすって飢えをしのぎました。

「ああ…晴賢さま!どこまでもついていきます」

陶晴賢の男気を示すエピソードでありました。

渡辺通

殿をつとめる毛利元就は、苦戦を強いられていました。

「まさかここまで苦戦するとは…もはやわが運も尽きたか」

「殿!弱気になってはなりません」

「通!」

毛利元就の前に名乗り出たのは思わぬ人物でした。

かつて毛利元就が毛利家当主に就任する際、それに反対した渡辺勝(わたなべ すぐる)。その渡辺勝を毛利元就は粛清しましたが、その勝の息子が、今目の前にいる渡辺通です。

「それがしが、殿の身代わりになります」

「なに!!」

「私の父は、殿に逆らい殺されました。その息子である私は、同時に殺されて当然のところ、殿は私を実の息子のように愛し可愛がってくださいました。その御恩に、今こそ報いさせてください」

「通よ、父を殺したワシを助けてくれるというのか」

「最期の戦働きをさせてください!」

そこで渡辺登は毛利元就の鎧甲冑をまとい、馬にまたがり、

バカカッ、バカカッ、バカカッ、バカカッ、

従者6人とともに、敵中に駈け入り、

「我こそは毛利の元就!われこそと思はん者は、わが首討て!!」

「ああっ!あれは毛利元就だ」

「なに毛利元就だと!!」

わあーーっと押し寄せてきた軍勢に、渡辺通は、むざん。

ずぶ、ずぶずぶずぶ、

と討ち取られてしまい、その間、毛利元就は、石見路を通って、吉田郡山城に帰還することができました。

「通、許してくれ!毛利の続く限り…渡辺の家は見捨てぬぞ!!」

こうして、大内方、尼子方、双方に大きな犠牲を出しつつ、出雲遠征は幕をおろしました。

隆景、小早川の養子に

出雲遠征が行われていた頃、天文10年(1541)3月、安芸の木村城(広島県竹原市)の小早川家で当主・小早川興景(おきかげ)が亡くなりました。跡取りはいなかったので、家臣一同、頭を抱えます。

「どうしたものか」
「これでは小早川家は断絶だ」

そこで、毛利元就の三男・隆景に白羽の矢が立ちます。

「なに!隆景を養子に?うむむむ…」

毛利元就は難色を示します。他家に自分の息子を養子に入れて毛利家を大きくする。その考えはいい。しかし、隆景はまだ9歳。あまりにも可愛い末っ子を手放すのは惜しいという気持ちがありました。また、なるべく高く売りつけてやろうという計算も働いていたかもしれません。

また、出雲遠征の最中であり、それどころではなかったということも、あるでしょう。

出雲遠征が失敗に終わった後も、毛利元就はなかなか首を縦にふりませんでした。3年後の天文13年(1544)ようやく三男隆景の小早川家への養子縁組が決まります。隆景は12歳でした。

「隆景を中国の蓋と見るは暗き眼なり。日本の蓋(ふた)にしても余りつる隆景なり」

後に豊臣秀吉をして、そう言わしめた小早川隆景。毛利両川体制の智恵袋として、毛利家を支える一翼をになっていくこととなります。

妻・妙玖の死

「ああ…隆景、行ってしまったか」
「あなた、お辛うございますか」
「そりゃあ可愛い末っ子じゃからのう」

そのように夫婦慰め合っていましたが、さらに、元就にとって悲しいことが起こります。

隆景が小早川家の養子になった4年後の天文14年(1545)11月、妻・妙玖が病にかかり、亡くなったのです。

「あなた…隆景は…元気でしょうか」

「ああ、隆景は頭がいい。きっとうまくやっているだろう」

「隆元は…」

「あいつもは少し線が細いのが気になるが…まじめでいい子じゃ」

「元春は…」

「あいつは武勇にすぐれた、勇ましい子じゃ」

「ああ…ならば私は何も思い残すことはございません」

「妙玖、妙玖、逝くな。わしを置いて逝かないでくれ」

こうして元就の妻・妙玖は天文14年(1545)11月、帰らぬ人となりました。享年47。

妙玖…と叫んでみましたが、これは出家後の法名で、本名は不明です。

毛利元就と妙玖の夫婦仲はたいへんよかったので、元就の落ち込みぶりは大変なものでした。晩年の元就は、三人の息子に当てた書状の中で、たびたび妙玖について語り、妙玖をお前たちの団結の要とせよと言っています。

後年、毛利元就は吉田郡山城内に妙玖をまつる妙玖庵を建てました。

隠居と吉川家乗っ取り

妙玖が亡くなった翌年の天文15年(1546)、元就は家督を長男の隆元に譲ります。この時毛利隆元24歳。元就は隠居という形を取りながら、引き続き毛利家を指導していきます。

さらに翌天文16年(1547)、次男の元春を、妻妙玖の実家である吉川家に養子縁組させます。吉川元春の誕生です。

吉川家と養子縁組させた、といっても、先代の当主・吉川興経(おきつね)を追放した上で、吉川家をごっそり奪うような形でした。これは毛利氏による吉川家乗っ取りでした。

その後、追放された前の当主・吉川興経、ロクなことになりませんでした。謀反をたくらんでいるという噂を立てられ、毛利元就軍に襲撃され、ついに首を取られました。

妻妙玖が亡くなった今、毛利元就は吉川家に対して容赦ない行動に出たのでした。

安芸の弱小勢力に過ぎなかった毛利家を、いかに大きく強固なものにしていくか?

その答えが、毛利元就の行った緻密かつ周到な、組織づくりだったのです。

井上一族の誅殺

毛利を中心に、吉川家・小早川家が両翼を支える。強固な毛利両川体制を築く。そのためには思い切った改革が必要でした。不平分子を取り除く必要がありました。

そこで問題となったのは、家臣の井上一族です。

井上一族は毛利元就が幼少のころから元就を支え、元就が毛利家当主に就任する際は、一番に元就を支持しました。また数々の合戦で功績を立てました。

しかし、それを鼻にかけて、驕り高ぶり、専横のふるまいがありました。

「…よって、井上一族を討ちます」

毛利元就は主君・大内義隆に井上氏追討を申し出て、許可を下されます。

時に天文19年(1550)7月。

ずばっ、ずばっ、
ぎゃあああああーーー

井上一族一の実力者・井上元有を、ついでその嫡男を、おびき出して、斬り殺します。

ついで井上一族の首領である井上元兼の屋敷を軍勢をもって取り囲み、攻め滅ぼしました。

井上一族30余名は皆殺しにされました。

「ひいい…何もあそこまでやることは無いのに。元就殿は家族には優しいが…いったん敵に回したら、とことんやるのう」

こうして、毛利一族の鉄の結束は、いよいよ強まっていきます。

毛利両川

次男・元晴を吉川家の養子に出し、三男隆景を小早川家の養子に出し、嫡男・隆元に毛利の家督を継がせた毛利元就は、毛利を中心とする毛利両川体制の上に立ち、毛利家をいよいよ強くしていきます。

また元就は小早川氏の擁する瀬戸内海の海運と、吉川家の擁する山陰の大勢力を、戦わずして手に入れることともなりました。

吉川・小早川
吉川・小早川"

次回「毛利元就(九) 毛利元就と陶晴賢」に続きます。

解説:左大臣光永