徳川家康(二十) 石田三成の最期

こんにちは。左大臣光永です。

コーヒーを3ヶ月ぶりに飲んでしまいました。あーあって感じです。酒よりもタバコよりも、コーヒーは強力です…。

本日は「石田三成の最期」について語ります。

慶長五年(1600)9月15日の関ケ原の合戦に敗れた石田三成は伊吹山に逃れるも、後日とらえられ、京都で処刑されました。

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石田三成の最期

慶長五年(1600)9月15日、関ケ原の合戦は東軍の勝利に終わりました。

西軍総帥・石田三成は伊吹山山中に逃がれ、しばらく潜伏して大坂で再起するつもりでした。伊吹山に入る時には多くの家臣が従っていましたが、人目につくことを考え、別れました。

それでも三人の家臣だけはどうしても三成と行を供にすること言うので、三成はこの三人ととも近江浅井郡(あざいぐん)の草野谷(くさのだに)を経て大谷山(おおたにやま)に逃れ、ここでしばらく滞在します。

その後、三人には大坂で必ず再会しようと約束して立ち去らせ、三成は単身山を超え、伊香郡(いかぐん)古橋村(ふるはしむら)に入ります。

ここに幼い頃手習いした法華寺三珠院(ほっけじさんじゅいん。現長浜市古橋)でしばらく匿われましたが、三成が隠れていることはすぐに村人の知る所となりました。

やむを得ず法華寺三珠院を出た三成は、昔世話をした土地の百姓・与次郎という者の家にたどり着きます。与次郎は三成を山中の岩窟に隠し、毎日食料を運んで世話をしました。

三成は逃亡中に稲穂などを食べたために下痢を起こしていました。そのため自由に立ち上がることもできぬ有様でした。それを与次郎は、まめまめしく世話しました。

しかし、与次郎が三成を匿ってることはすぐに村人の知る所となります。土地の名主が与次郎を呼び出し、早く三成を引き渡せと言ってきます。

与次郎がこれを三成に告げると、三成は運の尽きたことを悟りました。

「やむをえん。与次郎。私を引き渡せ」
「そんな…殿」
「匿ってくれたお前の義侠心に報いたいのだ」

与次郎は泣く泣く密告し、9月22日、三成は捕らえられ、井ノ口村(詳細不明)にいた田中吉政(たなか よしまさ)に引き渡されます。

さて田中吉政は家康から三成捜索を命じられていましたが、三成とは子供の頃からの親しい間柄であり、今回の三成の境遇には内心深く同情していました。

「この度、数万の軍兵を率いられたことはまことにゆゆしき智謀でござった。しかし勝敗は天の命。人の力でどうにもできるものではござらぬ」

田中吉政がそう言って慰めると三成は、

「秀頼公の御為に害を除き、太閤さまの御恩に報い奉らんとして兵を起こしたのだ。運尽きかような事態となったが、何をか悔やもうや」

吉政は三成を井ノ口村に三日留め置いて病気の療養をさせ、9月24日。家康に引き渡すべく出発。途中、守山(滋賀県守山)で一泊し、翌25日、大津の家康の陣に着きました。

大津の陣で家康を待つ間、三成は陣所の入り口で晒し者にされました。家康方の諸将が家康に謁見するため通り過ぎる中、福島正則が三成の姿をみとめ、馬上から大声で言いました。

「無益の戦を起こした挙句、なんと無様な姿を晒していることよ」

三成は、

「我武運つたなく、お前を生け捕りにしてかようにできなかったとことを残念に思う」

毅然とした態度で言い放ちました。

ついで通りかかった黒田長政は、三成を見ておもむろに馬から下り、

「不幸にもこのような結果となり、さぞ不本意でござろう」

そう言っていたわり、三成の汚れた衣を見て自分の羽織を脱いで三成に着せました。

「なに!三成殿が到着…」

それを聞いて、もっとも心乱されたのは小早川秀秋でした。関ヶ原で西軍を裏切り、その後佐和山城攻めを行いました。三成にとって一番の裏切り者ともいえました。

「とにかく…三成殿に一言なりとも…」

あわてて駆け出そうとする小早川秀秋を、細川忠興が止めますが、小早川秀秋はきかずに、門の所に駆け出していきました。

三成は小早川秀秋の姿を認めると、

「我汝にニ心あるを知らなかったは愚かであったが、汝は太閤の御恩を忘れ、義を捨てて約を違い、武将として恥じる所は無きや」

小早川秀秋は真っ赤になり、一言も言い返せずにその場を立ち去ったと伝えられます。

家康は礼を尽くして三成を引見しました。また三成も佐和山十九万石の大名として、威厳ある態度で家康と対面しました。しかし両者はにらみあうだけで、ついに一言も交わさなかったと伝えられます。

その後、家康は三成を本多正純(ほんだ まさずみ)に引き渡します。本多正純は暗に三成を非難して言いました。

「秀頼公はまだお若く、物の是非もしろしめされない。天下太平の道をこそ講ずべきであったのに…よしなき軍を起こしてかかる縄目の恥辱を受けられたことよ」

すると三成は

「つらつら今の世を見るに、家康を倒さなければ秀頼公の御為にならぬと考えて、宇喜多秀家・毛利輝元をかたらって兵を起こした。ところが戦にあたってニ心ある者が裏切ったため、勝つべき戦に負けたことが口惜しい。自分の負けたのはまったく天命である」

それに対して正純は

「知恵ある将軍は人の情をはかり、天の時を知るという。人の情が貴殿に向いていないことを知らずして軽々しく兵を起こし、自害もせずに絡め取られたのは貴殿にも似合わぬことであるな」

三成は、

「汝は武略を露ほども知らぬ。大将の道を語っても耳に入るまい」

そう言ってそれ以上口をきかなくなりました。

その間、三成以外の西軍首謀者の捜索も続けられていました。

小西行長は9月19日、伊吹山の東で捕らえられ、安国寺恵瓊は9月23日、京都で捕らえられました。

宇喜多秀家は伊吹山山中をさまよい歩いた挙句、美濃国揖斐郡(いびぐん)白橿村(しらかしむら)の土豪の家に一ヶ月ほど匿われます。その後は大坂に出て、薩摩の島津氏をたよって下っていきました。

慶長8年(1603)まで薩摩に匿われていましたが、薩摩藩主島津忠恒(ただつね)が薩摩に宇喜多秀家が匿われているのを明らかにし助命嘆願をしたことで居場所がばれ、駿河の久能山に幽閉の末、八丈島に島流しになります。

三成は小西行長・安国寺恵瓊とともに首かせをはめられ、大坂・堺の市街を引き回しの末、京都に送られ所司代奥平信昌(のぶまさ)に引き渡されました。

いよいよ処刑当日の10月1日。奥平信昌は石田三成・安国寺恵瓊・小西行長をそれぞれ車に乗せ、堀川出水(ほりかわでみず)の屋敷を出発しました。洛中を引き廻した上、処刑場である六条河原を目指しました。

途中、三成は、喉が乾いたので湯を所望しました。

「湯は無い。干し柿ならあるが」

「干し柿は痰の毒である。いらぬ」

「へえっ、これから殺されようとする者が体をいたわってどうするんだ」

どおっと警固の者は笑いました。しかし三成は

「お前たちのような者にとってはそうだろう。だが大義を知る者は、首をはねられる瞬間まで命を惜しみ、事を成し遂げようとするものだ」(『茗話記』)

こうして三成は六条河原で斬られました。享年41。

六条河原
六条河原

三成の首は安国寺恵瓊・小西行長と自殺した長束正家とともに、三条大橋橋詰にさらされました。

三条大橋橋詰
三条大橋橋詰

三成の遺骸は生前三成と交友のあった大徳寺の住職が引取り、大徳寺(だいとくじ)三玄院(さんげんいん)に懇ろに葬りました。

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解説:左大臣光永