徳川家康(十九) 関ヶ原の合戦

家康、美濃赤坂へ

すぐさま家康は江戸城から、各方面に司令を出します。嫡男の秀忠には宇都宮から中山道を進ませ、反徳川勢力の真田昌幸・信繁父子のたてこもる上田城を攻略させます。

尾張清洲城の福島正則・池田輝政らには、岐阜城の反徳川勢力・織田秀信(信長の孫)のいる美濃岐阜城を攻めさせます。

秀忠は上田城の攻略に手こずり、結局関ヶ原の戦いに間に合いませんでしたが、福島正則・池田輝政は戦果を挙げました。8月23日、岐阜城を落とすと、さらに西に進撃し、石田三成や宇喜多秀家の立てこもる大垣城と対峙しました。

岐阜城陥落の知らせを受けた家康は9月1日、江戸を出発。13日、美濃に入りました。

それまで赤坂の福島正則・池田輝政は大垣城と向かい合うばかりで、積極的な動きをしませんでした。石田三成は東軍の動きを測りかねていました。

「何をしているのだ。敵はなぜ動かぬ…」

しかしそれは、家康の到着を待って動かずにいたのでした。

9月13日の時点で、大垣城には石田三成・宇喜多秀家・小西行長・島津義弘の主力部隊。

大垣城の西・関ヶ原東口の南宮山には毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親らが。関ヶ原西口の山々には小早川秀秋・大谷吉継などが到着していました。

関ヶ原前夜

翌9月14日。

家康は全軍を西へ進め、大垣城西北の赤坂に陣を敷きました。

西軍の考えは、大垣城に籠城して時間をかせぎ、大坂城から毛利輝元隊が到着するのを待つ。そして輝元が到着した所で、東の石田三成隊と西の毛利輝元隊で家康を挟み撃ちにするというものでした。

家康はこれを見抜いて、短期決戦をしかけます。そのためには三成を大垣城から引きずり出し、野戦で決着を付けなければならない。そこで家康は、大垣城には構わず、関ヶ原方面に軍勢を進め、火を放ちます。しかも家康は西軍に、東軍は関ヶ原から佐和山城に向かうという情報を流しておいたようです。

城から敵を引きずり出して野戦で決着をつける。

これは、28年前の三方ヶ原合戦で武田信玄に家康が惨敗した、あの戦い方でした。

「信玄公、三方原では勉強させてもらいました。
それが今、役に立ちそうです」

家康、そんなこともつぶやいたでしょうか。

「な…家康め、狙いは佐和山城…そしてその先の大坂城だと!
これはまずい!関ヶ原で食い止めなくは大変なことになる」

14日午後7時、三成は雨の中、大垣城から4万の軍勢を関ヶ原に移動させます。大垣城から関ヶ原まで16キロを、東軍に気づかれないように、馬の口をしばり松明を消しての行軍でした。

15日午前1時、西軍主力部隊は関ヶ原に到着します。

決戦 関ヶ原

15日午前5時。東軍先鋒部隊が関ヶ原に到着。午前7時。東軍、関ヶ原に布陣を完了。家康自身は関ヶ原を西に見下ろす桃配山(ももくばりやま)に本陣を置きました。

あたり一面、濃い霧が立ち込めていました。

配置図をご覧ください。

関ヶ原布陣図
関ヶ原布陣図

関ヶ原盆地中央に布陣する東軍に対し、関ヶ原西口・笹尾山に三成本隊。松尾山に小早川秀秋隊。関ヶ原東口の南宮山に毛利勢。東軍は西軍に完全包囲されてしまっています。

明治政府が招聘したドイツの陸軍参謀メッケルが関ヶ原合戦の布陣図を見て「西軍が敗れることは絶対にありえない」と断言したのは有名な話です。

東軍7万4千。西軍8万4千。

しかし西軍の多くは事前に家康によって調略されて寝返りを約束していました。

午前8時。うっすらと霧が晴れる中、東軍方・福島正則隊と井伊直政隊の味方同士の先陣争いから戦いは始まります。

どかかどかかどかかどかかーー

先駆けをする福島正則隊。

その後に迫る井伊直政隊。その時、

パーーーーン

井伊直政隊より放たれた一発の銃声。これが合図となり、天下分け目の関ヶ原合戦が始まりました。

東軍の黒田長政隊・細川忠興隊・加藤嘉明(よしあき)隊は石田三成隊に、藤堂高虎隊、京極高知(きょうごく たかとも)隊は大谷吉継隊に、それぞれ怒涛の勢いで突撃します。

午前9時。

戦況は一進一退しますが…石田三成の本隊は黒田長政隊・細川忠興隊・加藤嘉明隊の集中攻撃にさらされ、苦戦を強いられました。

しかし!

「和州の住人島左近、ここにあり」

きん

ずば

どすっ

島左近隊の突撃により黒田長政隊は混乱。

「ぐぬぬ…島左近恐るべし。正面からではムリだ。迂回して、島左近隊の脇をつけ」

パーーーン、パパパパーーン

黒田長政隊が迂回して島左近隊の脇から一斉に銃撃。

「ぐはっ」

左近本人も重症を負いますが、

ドゴーーーン

笹尾山の石田本陣に据えられた大筒が火を噴くと、

わあーーーーっ

東軍は一気に押し返されます。

11時。

石田三成は南宮山に布陣する毛利秀元・安国寺恵瓊・吉川広家・長曾我部盛親ら2万7千と、松尾山に布陣する小早川秀秋1万5000に対して、のろしを上げます。

「東軍の背後をつけ」と。

しかし。

「…?どうしたことだ。なぜ動かぬ」

いつまで経っても、誰も動きませんでした。

南宮山では吉川広家が前面に陣取り、他の部隊の動きを封じていました。

安国寺恵瓊は

「ええい、何をしている」

焦って、吉川広家・毛利秀元隊に「早く動け」と伝令を送りますが、吉川広家は事前に家康と講和しており、安国寺恵瓊の伝令を無視して、動きませんでした。

小早川秀秋の裏切り

そして松尾山の小早川秀秋は。

事前に家康につくよう密約を交わしていました。しかし正面切って西軍を攻撃するわけでもなく、状況を見守っていました。

「後世の人に裏切り者と謗られとうはない…」

そんなことでも、考えてたでしょうか。

正午過ぎ。

三成や大谷吉継から小早川秀秋に、東軍を攻撃するよう督促が来ます。

「うう…どうしたものか…」

小早川秀秋は家康と密約を交わしているんだから、ここで三成の使者を斬り殺してさっさと東軍についたらいい所ですが、それもできず、グズグズしていました。

東軍本陣の家康は、

「おのれ小早川秀秋。どちらに着くか決めかねておるな
松尾山を銃撃してやれ」

パーーン、パパーーン

「殿、東軍が我々を!」

「ひっ、ひいいーーっ。徳川殿に殺されるッ」

ここに至り小早川秀秋はようやく決断しました。

「これより我らは東軍につく」

わーーーっ

どどどどどどとど

小早川隊秀秋隊1万5000は大谷吉継隊600に突撃。

「な…元太閤さまの養子が、家康につくだと!
おのれ小早川!!許さぬぞ」

怒る三成。

その時、

わあーーーーーっ

大谷吉継配下の脇坂安治(わきさかやすはる)・朽木元綱(くちきもとつな)・小川祐忠(おがわすけただ)・赤座直保(あかざなおやす)がいっせいに寝返り、吉継隊の側面から攻撃。

大谷隊はさんざんに打ち破られ、大谷吉継も自刃しました。

その後、東軍は小西行秀隊・宇喜多直家隊に攻撃を集中。どちらもさんざんに打ち破られ、西軍は総崩れとなりました。天下分け目の関ヶ原合戦はわずか6時間の出来事でした。

解説:左大臣光永