徳川家康(十七) 石田三成襲撃事件

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石田三成襲撃事件

豊臣家臣団も一枚岩ではありませんでした。

石田三成らの文治派と、加藤清正・福島正則らの武断派が対立を深めていました。特に朝鮮遠征における査定に対する不満から、両者は関係を悪化していました。そんな中。

慶長4年(1599)閏3月3日、前田利家が死にます。

前田利家は三成ら文治派と加藤清正・福島正則らの武断派の間にあって、両者のバランスを取る調整弁でした。その前田利家が死んだことで、両者のバランスが崩れました。

その利家が死んだ、翌日の3月4日にはもう事件が起こります。

武断派の七将(加藤清正(かとう きよまさ)、福島正則(ふくしま まさのり)、細川忠興(ほそかわ ただおき)、浅野幸長(あさの よしなが)、黒田長政(くろだ ながまさ)、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)、藤堂高虎(とうどう たかとら))が、石田三成の大坂屋敷を襲撃しました。

しかし石田三成は佐竹義宣の手引きですでに大坂屋敷を逃げ出しており、その後、京都の伏見城に逃れます。

※ドラマなどではここで三成は敵である徳川家康のもとに逃げ込んだと語られますが、作り話です。

怒り狂って伏見城に迫る七将。そこに出てきたのが家康です。

「三成殿は隠居ということでいいだろう。
それと朝鮮遠征の査定をやり直す」

結局、家康の仲立ちで石田三成は五奉行を退くこととなり、佐和山城(滋賀県彦根)に隠居となります。

「まあ、そういうことなら」

七将は矛を収めました。

伏見城入り

3月13日、家康は黒田長政らの尽力により、伏見城に入ります。これで家康はいよいよ天下人としての地位を確立した形となりました。伏見城に入った家康は毛利輝元に書状を送り、互いの中の昵懇であることを確認しあいました。

8月14日、家康は上洛し後陽成天皇に拝謁しました。朝廷は家康を秀頼と同等の、まったくの天下人として扱いました。

大坂城を占拠

そんな中、一つの事件が起こりました。

慶長4年(1599)7月7日。重陽の節句。徳川家康は秀頼に拝謁するため大坂城に登城していました。そこへご奉行の一人・増田長盛が耳打ちします。

「御身が危のうございます。前田利長らが、徳川殿を殺害しようとしています。協力者は浅野長政・土方雄久(ひじかた かつひさ)・大野治長(おおのはるなが)」
「ぬ…」

家康は素早く動きました。浅野長政・土方雄久を島流しにして、大野治長に国内蟄居を命じました。

ついで前田利長とその姻戚の細川忠興に謀反の疑いありとして討伐しようとしました。

「じょ、冗談じゃない。濡れ衣だ」

すぐさま前田利長と細川忠興は家康に対してけしてニ心なき旨起請文に書いて提出し、また人質を差し出し事なきを得ました。しかし今や家康の権威は大名に起請文を出させたり人質を取るまでの大きさになっていたのでした。

以後、家康は大坂城二の丸に居座り、大坂方の政治を取り仕切ります。

解説:左大臣光永