徳川家康(十六) 天下人秀吉 逝く

天下人秀吉 逝く

慶長3年(1597)3月15日、秀吉は醍醐で盛大な花見を開きました。北政所以下、淀殿、松の丸殿、三の丸殿、加賀殿と側室が輿で到着し、次に前田利家の正妻・まつが輿に乗って到着しました。男では秀頼と前田利家のみが招かれました。

諸大名から女房女中1300人が集められ、茶屋が一番から八番まで立てられ、まことに盛大な宴となりました。

2ケ月後の慶長3年(1598)8月18日。秀吉は息を引き取りました。

死に先駆けて秀吉は自分の死後の体制を考えます。

徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝(はじめは小早川隆景。隆景が死んだことにより上杉景勝となった)を五大老に任じ、

石田三成、浅野長政(あさの ながまさ)、増田長盛(ました ながもり)、長束正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)、前田玄以(まえだ げんい)を五奉行に任じます。

7月15日。大阪・伏見に諸大名を集め、11ケ条の遺言を出しました。また五大老の中で特に徳川家康を名指しして、

「後のことは頼みましたぞ。
秀頼が成人するまでは、政治を見てやってくだされ」

こう命じたことで、家康は五大老の筆頭扱いとなりました。

(ただし、五大老・五奉行という言葉は江戸時代に造られた言葉で、この時は存在しない)

家康、天下取りに乗り出す

秀吉の死後、五大老の決議により、まず行われたのが、朝鮮からの撤退です。

長引く不毛な遠征に、誰もがウンザリしていましたからね。11月末には朝鮮半島に布陣していた諸将の撤退が始まり、12月には博多に到着しました。ここに7年間にわたる「唐入り」は終わったのでした。

その後、家康は天下取りに向けて、ロコツに動き出します。

秀吉生前から大名同士の縁組は法度により禁じられていましたが、家康は公然と法度を破ります。伊達政宗の長女と自らの六男・松平忠輝を婚姻させたのを始めとして、福島正則・黒田長政とも姻戚関係を結ぼうとします。

「どういうことですかな、これは!」

すかさず四大老・五奉行が文句を言ってきました。中にも石田三成は家康の非を難じ、家康を討とうとまで息巻きます。

一触即発の空気。

しかしこの時は話し合いで終わりました。家康と、四大老・五奉行かそれぞれ秀吉の決めた決まりや五大老・ご奉行の間で取り交わした約束を守ると起請文を取り交わしました。家康の婚姻行為は、不問に付されました。

この頃から家康は、島津義弘・増田長盛など親豊臣派の大名の屋敷に足しげく訪れるようになります。

「自分に味方するか。それとも敵に回るか」

見極めようとしたんでしょう。

解説:左大臣光永