徳川家康(十五) 慶長の役

慶長2年(1597)2月、秀吉は第二次出兵の陣立てを定めます。

加藤清正の第一軍、小西行長の第二軍をはじめ、全九軍の編成で総勢14万以上。文禄の役に匹敵する大規模な陣立てでした。しかし、文禄の役前半のような快進撃とはいきませんでした。

戦いは泥沼化していきます。緒戦こそ、藤堂高虎や小早川秀秋が勝利を治めましたが、日本軍はしだいに押されていきます。

要衝の地・蔚山(ウルサン)に加藤清正が入場すべき城を造営していた所、4万の明・朝鮮連合軍に包囲され、兵糧も水底を尽きます。朝鮮側に内通する者も出てました。

慶長の役 関係地図
文禄の役 関係地図

「もはや和議のほか無い…」

清正もそう考えはじめた所に、日本軍の救援が海と陸から来たり、何とか明・朝鮮連合軍は撃退しましたが、日本軍は疲弊しきっており、追撃する余力はありませんでした。

ここに到り、宇喜多秀家はじめ13名の大名は、石田三成はじめ四人の奉行に訴えます。

「これ以上持ちこたえることは不可能。
撤退する」

そして返事を待たずに撤退を始めました。

三成から報告を受けた秀吉は激怒します。

「じゅうぶんに戦いもせず、
城を放棄して撤退とは何事か!!」

やはり秀吉には現場の苦労はまったく伝わっていませんでした。秀吉は撤退した朝鮮遠征軍の大名たちの知行国を没収したり、謹慎を命じたりしました。

これにより石田三成以下の奉行と、加藤清正・宇喜多秀家ら朝鮮出征組との間に亀裂が生じます。

「おのれ三成~これというのもアヤツが
太閤さまに我々のことを悪く報告したからじゃ」

というわけです。これが後の関ヶ原の戦いの布石となっていきます。

解説:左大臣光永