徳川家康(十四) 文禄の役

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文禄の役

侵略まで

天正19年(1591)10月、秀吉は朝鮮出兵の基地として九州に名護屋城の建造を開始。翌文禄元年(1592)、朝鮮への侵攻を開始しました。「文禄・慶長の役」の始まりです。

秀吉は早くから中国・朝鮮への侵略の意思を持っていました。

天正13年の書状では「日本国のみならず唐国(中国)をも支配したい」と表明しています。翌天正14年、イエズス会のコエリュを大坂城に招いた時、

「国内を平定したら甥の秀次に譲り、自分は朝鮮・中国の征服に専念したい」

そんなことを語っています。

天正15年(1587)九州の島津氏を征伐した直後、北政所にあてた手紙では、

「高麗のほうまで、日本の朝廷に出仕するよう早船の使者を立てた。
もし聞き入れないなら征伐する」

そんなことを語っています。自信満々です。

九州攻めの直後、対馬の宗義調(そうよししげ)・義智(よしとし)父子が秀吉に投降してきました。この宗義調・義智父子に対して、秀吉は命令します。

「朝鮮国王が日本に従うように取り計らえ」

これは無茶な話でした。

対馬は資源も少なく、土地面積も少ないので朝鮮との貿易は命綱でした。その朝鮮に対してケンカ売っても、対馬にとっていいことは何一つありませんでした。それは対馬の破滅を意味していました。

宗父子は考えた末に、秀吉の命令を曲げて、朝鮮国王に伝えます。

服属しろ、ではなくて秀吉が国内の平定をし終えたから、それを祝う使節を派遣してくれ、という話として伝えました。こうして。

天正18年(1590)3月、朝鮮から日本に使節が派遣されてきます。

使節団は3月に漢城(ソウル)を発ち、7月、京都に到着。大徳寺を宿所として秀吉の帰還を待ちます。この頃秀吉は小田原征伐に続けて奥州に向かっていたので。

11月。ようやく奥州仕置を終えた秀吉が京都に帰還すると、使節団は聚楽第にて秀吉に謁見します。

ところが。

秀吉は「日本に服属するという意思表明にきたのだな」と思ってます。使節団は「国内統一おめでとう」と言いに来ただけです。当然、食い違いが生じるわけです。

「ふん。何をしにきたのか!」

秀吉はとたんに不機嫌になりました。

えらそうな、ふんぞり返った態度で使節団に接しました。

朝鮮国王への返書はずるずると伸びて、その間、使節団は堺で待機しなくてはなりませんでした。

「何なのだ秀吉という男は!」
「あれが外交使節に対する態度か!」

使節団、そんなことも言い合ったんじゃないでしょうか…。

しかし秀吉の明国征服にかける野心は本物でした。

朝鮮出兵中の毛利輝元に当てた書状の中で、秀吉はこんなことを語っています。

「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の、卵を圧するがごとし」

「ただに大明のみならず、いわんや天竺・南蛮かくのごとくあるべし」

処女のような大明国を滅ぼすのは山が卵を潰すようにカンタンなことだ。ただ明国だけでない。天竺・南蛮もそのようなものに違いないと。

明国ですら無謀なのに、さらのその先は、天竺・南蛮にまで秀吉の野心は向いていました。誇大妄想に取り憑かれたかのようです。

しかも秀吉は朝鮮・中国との戦いを国内線の延長で考えていました。四国征伐や九州征伐、小田原攻めの勢いで、いけると考えていたのです。驚くべき認識不足です。

秀吉は、どうして中国征服を思い立ったのか?

そもそも秀吉は、どうして中国征服を思い立ったのでしょうか?

秀吉自身の言葉によると…後世に名を残すためだと。だから今まで誰もできなかったことをやる。中国人を従わせるのだと。私は中国に住むつもりはなく、領土を奪うつもりもない。中国を征服したら日本に戻るつもりだと語っています。

しかしこれは外向きのポーズであり、そのまま信じることはできないです。

実際の理由がどうだったかは…よくわからないんですね。

服属した大名の不満を海外に向けるためという説。

国内に恩賞として与えられる土地が少なくなってきたので海外へ矛先を向けたという説。

いろいろ説は出されていますが、結局のところ、よくわからないです。

日輪の子を自称

また秀吉は朝鮮国王に当てた書状の中で、おかしなことを言い始めます。

自分は日輪(太陽)の子であるから、日本国のみならず世界をあまねく支配するよう運命づけられているのだと。

だから従えと。

誇大妄想に取り憑かれたのか、侵略戦争を正当化するためにわざと言ってるのかわかりませんが…こんなバカな手紙を送られたほうからすれば、失笑ものでしょう。

出兵準備

朝鮮からの使節団は単に秀吉の全国統一を祝いに来ただけだしたが、秀吉はこれを一方的に解釈しました。朝鮮は日本に服属したのだと。その一方的な思い込みのままに、対馬の宗氏にまたしても無理難題を押し付けます。

来る明国征伐では朝鮮に先導役をさせるから、その旨、朝鮮国王に認めさせてこいと。

「やれやれ…どうしたものか」

さぞかし宗氏は両目がばっ点になってたでしょうね。

とにかく、そんな要求は無理なことはわかっているので、秀吉の命令を曲げて伝えます。

明国征伐の先導をせよ、ではなく、民国征伐の際、朝鮮の道路を使わせてほしいと。

「そんなバカな要求には従えない」

朝鮮側はこれを拒否しました。そりゃそうだ。

このように朝鮮との交渉はまったくうまく進んでいませんでしたが、秀吉はおかまいなしで出兵の準備を進めます。

天正19年(1591)8月、愛児鶴松が亡くなります。その悲しみも、もしかしたら秀吉から冷静な判断力を奪っていたかもしれません。

聚楽第と京都周辺の直轄領を甥の秀次に譲り、各地の大名に通達します。

「出兵は来年の3月1日。
名護屋城の普請は、加藤清正・黒田長政・小西行長に命ずる」

同年12月、秀吉は関白の位を降りて「太閤」となります。自由な身となって大陸侵略に専念したいとの考えからでした。かわって秀次が関白に就任しました。

加藤清正・小西行長・黒田長政に肥前名護屋城の普請を命じ、着々と出兵の準備を進めました。

大規模な徴兵が行われます。

文禄元年(1592)3月、158800人の軍勢を第一軍から第九軍に分けた陣立て書が発表されます。

第一軍 宗義智・小西行長・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄(計18700)
第二軍 加藤清正・鍋島直茂・相良長毎(計22800)
第三軍 黒田長政・大友義統(計11000)
第四軍 毛利吉成・島津義弘・高橋元種・秋月三郎・伊藤祐兵・島津豊久(計14000)
第五軍 福島正則・戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・来島通之・同通聡(計25100)
第六軍 小早川隆景・毛利秀包・立花宗茂・高橋直次・筑紫広門(計15700)
第七軍 毛利輝元(30000)
第八軍 宇喜多秀家(10000)
第九軍 羽柴秀勝・細川忠興(11500)

家康も3月17日、1万5千の軍勢を率いて肥前名護屋城に向かいました。留守の駿府城はすでに元服した嫡男の秀忠に任せました。

第一陣の宗義智・小西行長は一足先に朝鮮に渡り、朝鮮国王の説得に当たりました。もちろん朝鮮側は、そんな要求は飲めないです。

「もはや躊躇はできん」

4月12日朝。全軍、700艘あまりの船に分乗して対馬を出港。同日夕方、釜山浦(ぷさんぽ)に到着。

文禄の役の始まりです。朝鮮ではこの年の干支から壬辰倭乱(じんしんわらん)といいます。

緒戦

第一軍は13日、釜山(プサン)城を、14日東莱(トンネ)城を落としながら北上。27日、忠州(チュンジュ)で加藤清正の第二軍と合流。緒戦は日本軍が快進撃を続けました。

「なんと!忠州が落ちた…!」

朝鮮国王は忠州陥落の知らせを聞くと、首都漢城(ハンソン)を落ち延び、平壌(ピョンヤン)に入ります。

5月3日早朝、第一軍・第二軍は国王不在の漢城を落とします。続いて宇喜多秀家・黒田長政らが漢城に入場しました。

加藤清正は5月2日付けで漢城陥落の知らせを名護屋城の秀吉のもとに送ります。

「よし!」

秀吉大いに喜び、はやく自ら海を渡りたい気持ちを抑えつつ、

「日本軍に乱暴狼藉を禁ずる」

から始まる九箇条の命令書を5月16日付けで加藤清正に送ります。

有頂天の秀吉はもう明征服はかなったぐらいの勢いで、関白秀次と前田玄以に明征服後の構想を書き送っています。その構想とは、

秀次を中国の関白として、北京周辺に百ケ国を与える。
後陽成天皇を北京に遷して四十ケ国を与える。
日本の天皇には皇太子(良仁親王)か皇太子の弟(智仁親王)を即位させる。
日本の関白には羽柴秀保か宇喜多秀家を置く。

朝鮮には織田秀信か宇喜多秀家を
名護屋城には小早川隆景を置く。

そして秀吉自身は寧波に居城を置き、天竺攻略に乗り出すという…

なんともスケールの大きい、荒唐無稽な…ぶっ壊れっぷりでした。聞かされた秀次と前田玄以も、ポカーンとして言葉を失ったことでしょうね。

しかし後陽成天皇は秀吉の計画に乗り気で、すっかり北京に行幸するおつもりだったようです。

北進

さて。漢城(ハンソン)には宇喜多秀家が駐留し、加藤清正・小西行長・黒田長政は北に進みます。5月28日、臨津江(イムジンガン)の戦いで朝鮮軍を撃破。翌29日、開城(ケソン)を落としました。

その後加藤清正は朝鮮東北の咸鏡道(ハムギョンド)に向かい、小西行長・黒田長政は6月15日に国王が逃亡した後の平壌に入りました。

一方、各地域でその土地からの収入を報告させ、税を巻き上げるための基本台帳が作成されました。

行き詰まる日本軍

このように緒戦は日本軍は快進撃を続けましたが、やがて行き詰まります。戦線を広げすぎたこで兵糧の確保が困難になります。また、各地で朝鮮の義兵が蜂起して日本軍の城を襲いました。

中にも朝鮮水軍の李舜臣(イスンシン)の活躍はよく歴史に記憶されています。

5月7日、巨済島(コゼド)沖で藤堂高虎の水軍を撃破。

7月9日、閑山島(ハンサンド)沖で脇坂安治らの水軍を撃破。

日本軍は制海権を奪われ、補給線を断たれました。

しかも、9月から明の救援軍が朝鮮に入り、日本軍はますます不利となります。寒さも強烈になってきました。日本軍は戦線縮小を余儀なくされました。

泥沼状態のまま、日本軍は戦地で年を明かします。

翌文禄2年(1593)正月7日。李如松(りじょしょう)を大将とする明・朝鮮連合軍4万が平壌を包囲。小西行長らは必死の抵抗をするも、ついに平壌を明け渡してしまいます。小西行長らは平壌を逃れ、黒田長政と合流して漢城まで撤退しました。

その後、正月26日に小早川隆景が漢城北方・碧蹄館で明軍を破るという一幕はありながらも、戦況は一進一退。日本軍は兵糧も不足し、士気は低下していきました。

いつまで続くんだ、この不毛な戦いは…兵士たちの間にはウンザリした気分が蔓延していました。

そんな中、秀吉の母が危篤状態に陥り、秀吉は一時名護屋を城離れ大坂城に戻り、留守の名護屋城を徳川家康・前田利家が預かるという一幕もありました。

小西行長はすでに何度も明側から講和交渉を持ちかけられてましたが、

「もはや戦いを続けることは不可能…」

と判断。ついに講和に応じることにしました。

講和交渉

5月15日、明の使節が名護屋城に入り、秀吉と会見。講和交渉に入ります。28日、秀吉は七か条の条件を出しました。その内容は

・明の皇女を日本に迎えて天皇の后とする
・勘合貿易を復活させる
・明と日本の和平を永続させる旨、誓詞を取り交わす
・朝鮮には北部四道と漢城を変換する
・朝鮮から王子と大臣を日本へ人質として渡らせる
・去年捕虜とした朝鮮の王子二人は返還する
・朝鮮王子の家臣たちが未来永劫、日本に背かないと誓詞を提出する

なんじゃこりゃ。どんなだけ強気なんだよって内容ですね。秀吉の頭の中では「強力な日本軍の前に、明・朝鮮が膝を折ってきた」という話になっており、こんな方向違いの講和条件が出されたわけです。

またこれら七か条の条件とは別に秀吉は朝鮮出兵の理由を明に伝えています。

いわく。

日本は神国なり。

秀吉は日輪の子なり。

天下統一は秀吉がなしたことでなく天のなしたことである。

明の村々を日本の海賊が荒らし回っていたのを討伐したのに、明から感謝の意がなかった。日本は小国だからとナメられたのだ。けしからんということで明の征服を思い立った。朝鮮はそれに協力するといったのにしなかったので出兵した。

「なんだこれは…」

朝鮮でこれら講和条件と秀吉の出した「朝鮮出兵の理由」を知った小西行長は絶句します。

「こんなのはダメだ。交渉が決裂してしまう」

そこで小西行長は明側の沈惟敬とはかり、秀吉の条件は無視して、ニセの講和文書を作って、明皇帝に届けます。明皇帝に服属するという内容でした。

「ならば秀吉を日本国王に任じよう」

明皇帝はそう言って日本に使節を派遣しました。

使節は文禄5年(1596)9月1日、大坂城で秀吉に謁見します。

「なんじゃこれは!…日本国王に任ずる?
誰に任じられるまでもなく、余は日本国王じゃ!
それにこちらの提示した条件については何も書かれておらぬ。
舐められたものだ!」

こうして日中の講和は破綻しました。

解説:左大臣光永