徳川家康(十ニ) 駿府入り

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家康を臣従させる

秀吉は小牧・長久手の勝利後、翌天正13年、根来・雑賀の一向一揆衆を殲滅。

天正13年(1585)7月11日関白に就任しました。

また京都に荘厳な聚楽第を築き、その権力を示しました。

一方で秀吉は家康に対しては懐柔策に出ます。妹の旭姫はすでに嫁いでいましたが、これを離縁させ、妻として家康に送ります。家康はこれを受け入れ、浜松で式を挙げます。

とはいえ旭姫はこの時44歳の姥桜。押し付けられたほうの家康もたまったもんじゃなかってでしょう。

しかし結婚しても家康はまだ上洛すると言わない。そこで秀吉は、母大政所(おおまんどころ)をも、人質として家康に差し出します。

「どうか、上洛してくだされ」

そう盛んに訴えるのでした。

「やれやれ…ここまでされては」

さすがの家康も、聞き入れざるを得ませんでした。天正14年(1586)10月、大坂城にて秀吉・家康は対面します。

「家康殿、今度の上洛、大義でござった」
「ははっ、…つきましてはお願いがございます
「む、願いとな」
「殿のご愛用の陣羽織を、それがしに賜りたく存じます」
「なに!この陣羽織はワシが戦場で着る大切なものじゃ。やれるものか」

「私が殿の家臣になるからには、もう殿を戦場に立たせるようなことはございません」

「ほっ…いや、これは一本取れられた。そういうことなら、差し上げよう」

こうして、家康が秀吉に膝を屈したことが天下に示されました。

駿府入り

天正14年(1586)10月、家康は秀吉と講和を結ぶと、秀吉の母大政所を返し、いったん浜松に帰還。12月4日、駿府城に入ります。天正壬午の乱、小牧・長久手の戦いと戦が続き、しばらく領国経営に力を入れられませんでした。「これからいよいよ本格的に地固めをしていくぞ」その、拠点としての、駿府城でした。

「25年ぶりか…」

駿府は家康が8歳から20歳まで、12年間を今川家の人質として過ごした場所です。あの頃は吹けば飛ぶような人質の身分。それが45歳の今、東海五カ国の王者として駿府入りを果たしたのです。家康はしみじみ、感慨深いものがあったことでしょう。

以後、家康は駿府城を居城とします。

秀吉の前でバカを演じる

家康は領国の地固めに専念する一方、たまに上洛した際には秀吉に卑屈なほどコビを売りました。それも、巧妙に自分をバカに見せて、秀吉に睨まれないように気を遣っていました。

聚楽第で能が開かれた時、家康は織田信雄と並んで舞いました。織田信雄は並びなき舞の名手。一方の徳川家康小太りで、いかにもみっともない。舞もたどたどしい下手くそなものでした。信雄と並んで舞うと、いよいよ家康のブザマさが引き立ちました。

「なんとまあ家康殿の滑稽なこと…」

周囲は笑い、バカにしました。

しかし加藤清正や石田三成などは、よく見ていました。

「武将が能などうまく舞えた所で何のトクにもならん。それに引き換え…家康の古狸め。バカのふりをして太閤さまを騙そうとしている。抜け目のないことよ…」

ある時、秀吉が三河者の工事を見て、褒めました。

「三河者は実用一点張りで上方風の趣味のある普請は出来ぬと思うていたが、
なかなかどうして、三河者の普請は立派なものではないか」

秀吉に褒められて、三河の人夫たちも悪い気がしません。よしもっと頑張るぞと、やる気を出していると、

それを聞いて家康が怒りました。

「愚か者が。三河者は普請が下手、そう思われているくらいが調度いいのだ」

三河者は普請ベタという評判があればこそ、工事の負担を逃れられる。だのに普請上手となったら余計な負担を押し付けられる。そこを家康は言ったものでしょう。

とにかく家康は本心からは秀吉に従わず、本性を巧妙に隠していました。もちろん、秀吉の目も節穴ではありませんでした。

「織田信雄は茶の湯や和歌といった風流の道では天下に並びなき名人だが、天下をおさめることについては父信長の爪の先ほどもない。家康は無風流・不調法のきわみだが、天下をおさめることについてはわが国はもとより異国にもあのような男はおるまい」

そんなことも言ったのでした。家康と秀吉はそしらぬふりをしながら互いを警戒し、腹の内を探り合っているような状態でした。

解説:左大臣光永