徳川家康(十) 天正壬午の乱
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本能寺の変の後、まっさきに弔い合戦に乗り出したのが羽柴秀吉でした。秀吉は交戦中の毛利といち早く講和を結び、中国大返しで引き返すと、6月13日、山崎の戦いで明智光秀を滅ぼしました。
家康はこの間、何をしていたか?
信長死後の混乱した甲斐・信濃に侵攻していました。
本能寺の変後、甲斐は、支配者がいなくなり権力の空白地帯となっていました。穴山梅雪は逃げる途中に殺され、甲斐をあずかっていた織田家重臣河尻秀隆も一揆勢に討たれてしまったためです。
小田原北条氏がこれを狙って甲斐に侵攻してきましたが、家康はさっさと小田原北条氏と講和を結び、甲斐・信濃の支配を認めさせてしまいます。
また家康は武田を滅ぼしたといっても、信長のように武田の遺臣に苛烈な処分を下したりしませんでした。多くは本領を安堵し(もとの領土をそのまま認め)、徳川家臣団の中に組み込みました。武田の遺臣で家康に忠誠を誓ったものは895人にのぼったといいます。
信濃では信長によって配置された滝川一益・森長可は西に引き上げた後、越後の上杉景勝が侵攻してきました。しかし結局は家康方と講和を結び、北部を上杉景勝が、南部を徳川家康が分け合う形となりました。
これら、武田家滅亡にともなう徳川・北条・上杉の一連の戦いを、天正壬午の乱といいます。
結果。
家康は三河・遠江・駿河の東海地方に加え、甲斐と信濃南部。計五カ国を領有する大大名へと成長していきました。
天正壬午の乱
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解説:左大臣光永