徳川家康(四) 清洲同盟

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清洲同盟

桶狭間の翌年の永禄4年(1564)、松平元康はたびたび西三河で織田方と戦いました。表向きは今川義元の弔い合戦という大義名分を掲げていましたが、真の目的は三河国内を安定させることでした。

しかし…義元の跡を継いだ氏真(うじざね)は凡庸な人物でした。

「父君の仇討ちです。早く兵を起こしてください」

松平元康はそう言ってたびたび氏真をせかしますが、

「おう、まあ、そのうちな…」

そんなふうに言っては、蹴鞠ばかりやっていました。

(この当主はダメだ。今川には先がない…)

しだいに元康の気持は今川氏真から離れ、織田信長に接近していきます。

一方、信長もかねてから元康と手を結びたいと考えていました。

目下、信長は美濃の斎藤義龍と交戦中であり、背後の松平元康と敵対したくなかったのです。そこで信長は、元康の叔父にあたる水野信元を元康のもとに送り、しきりに同盟を呼びかけます。

「信長公は松平殿のことを高く買っておられます。
まして跡を継いだ今川氏真は凡庸な人物。
どうかご決断くだされ」

「うぬぬ…」

しかし、信長と同盟を結ぶとなると、本格的に今川と敵対することになります。多くの家臣を死なせることになるかもしれない。元康は松平家家臣団を招き、問いかけます。

「わしは織田につこうと思うが、どうか」

ざわざわっ…

家臣団の答えは。

「わかりました。殿のご決断なら従います」
「殿のご決断ならば、なんの不満もありません」

「お前たち…」

永禄5年(1562)。

清洲城にて、信長と松平元康の間に同盟が結ばれました。これを清洲同盟といいます。

以後、松平氏はこれまでと一転して、東三河の各地で今川と戦うようになります。

「おのれ松平、裏切りおったな!!」

怒った今川氏真は、松平家臣団から人質として取っていた家族を串刺しにして殺しました。

しかし家康の妻築山御前・長男信康・長女亀姫は今川の親類だったので手出しはされませんでした。後に人質交換で駿府から岡崎に戻されます。

松平家康となる

翌永禄6年(1563)、元康は名を家康と改めます。松平家康です。今川義元からもらった「元」の一字をはずし、今川家と完全に縁を切ったことを、名前においても示したのでした。

解説:左大臣光永