徳川家康(ニ) 人質時代

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竹千代、織田の人質となる

離縁したお大にかわって広忠は新たに戸田宗光と手を結んで宗光の娘を後妻に迎えます。

戸田宗光と政略結婚することで国内にいまだすくう反対勢力と織田信秀の脅威に対抗しようとしたものですが…戸田宗光は駿河の今川と敵対していたので、松平はあたらに今川も敵とするはめになってしまいました。

天文15年(1546)、今川勢が三河に侵攻すると、たのみの戸田宗光はアッサリ降参してしまいます。「何にもならないではないか!」広忠が地団駄を踏む間もなく織田信秀軍が三河に侵攻。同年9月、広忠は三河岡崎城にて織田信秀に降伏しました。

「では降参の証として、ご嫡男を人質によこしなさい」
「くっ…やむを得ぬ」

こうして竹千代は織田信秀に人質として差し出されることなりました。

広忠の死

その後、広忠はなんとか松平氏の権勢を回復しようと、今川氏に接近します。今川氏の後ろ盾のもとに、織田信秀を討ち取ろうとしたのです。しかし、なかなかうまくいきませんでした。そうこうしているうちに

天文18年(1549)3月6日、松平広忠は24歳で亡くなります。死因は不明ですが、『三河物語』には、この前年家臣の岩村弥八の刀「村正」で斬られた傷がもとで亡くなった、とあります。岩村弥八は、なにか主君に不満があったんでしょうか。それとも物狂いの類でしょうか。

村正の刀は清康・広忠二代にわたって当主の命をうばったわけで、以後「妖刀村正」として不吉がられるようになります。

とにかく、松平広忠は死に、嫡男の竹千代は織田の人質。松平家では目下跡取りがおらず、松平家臣団は途方に暮れます。

人質交換で駿府へ

「いったいどうしたらいいのか」
「これでは我ら松平家臣団は、露頭に迷います」

「とにかく、当主竹千代さまの奪還。
そして織田方に奪われ安祥城の奪還。
この二つだ」

「だがどうすればいい」

松平家臣団は話し合った結果、駿河の今川義元に助けを求めることになりました。

「ふおっふぉっふおっ、それはお困りでしょう。
よろしい。我ら今川におまかせあれ。雪斎」

「ははっ」

「話はわかったな。松平当主竹千代の奪還。
そして安祥城の奪還。そちに一任する」

「ははっ」

今川義元は、太原雪斎を大将とする軍勢を三河に侵攻させます。太原雪斎は後に竹千代の家庭教師となる兵法家です。対して安祥城の守りは、信長の兄・織田信広。凡庸な人物でした。

織田信広は安祥城を囲まれ、降伏か切腹か、二つに一つしか無いという所まで追い込まれます。「仕方が無い…降伏しよう」信広は降伏し、今川家の捕虜となりました。その後、太原雪斎は織田方と交渉し、捕虜交換を実現させます。

信広を織田家に返すかわりに、竹千代を駿府によこせというのです。織田方はこれを飲み、竹千代は駿府に移ることになりました。何の事はない。これまで織田の人質だったのが今川の人質に変わっただけでした。

今川義元としては、松平の当主である竹千代を手元に置いておくことで、後々松平家をうまくコントロールしようという腹がありました。

また、今川氏にとって松平氏は織田との最前線の境目にあり、政治的価値が高かったのです。そういう事情があり、今川義元は竹千代を手元に置いておきたかったのでした。

駿府人質時代

駿府で、竹千代は祖母である源応尼(げんおうに)に養育され、太原雪斎から学問の指導を受けました。太原雪斎は禅僧であるだけでなく、儒学や軍学にも通じている、今川義元の軍師でした。

もし桶狭間までこの人が生きていたら、今川家滅亡はなかっただろうとまで言われています。竹千代はその太原雪斎から指導を直接受け、8歳から20歳までの12年間を駿府に過ごしました。これは後々の徳川家康を作る上で大きな土台となりました。

現在、静岡県臨済寺(りんざいじ)に、「竹千代 手習いの間」があり、駿府城公園巽櫓内の資料館にレプリカが展示されています。

竹千代の駿府人質時代について、さまざまなエピソードが伝わっています。

竹千代は鷹を使うのが好きで、たびたび鷹を飛ばしていました。その鷹が、隣の孕石主水(はらみいしもんど)の屋敷によく飛び込みました。そのたびに孕石主水は「呆れた三河の小倅め」と竹千代を叱りつけました。

竹千代にはそれが屈辱でした。後に家康は、遠州高天神城の戦いで勝利した後、捕らえた孕石主水に切腹を命じています。子供の頃の恨みを忘れなかったんでしょうか。しつこい性格ではありますね…。

またある時の正月、竹千代は今川義元の屋敷に新年の挨拶に上がりました。そこには今川家の家臣たちが大勢集まっていました。「なに?松平清康の孫?知らぬなあ。聞いたこともない」そんなふうに、誰も竹千代に敬意をはらわない。

そこで竹千代はツカツカと縁側まで歩いていき、いきなり袴を下ろしたかと思うと、じゃーーー思いっきり小便を垂れました。「なっ…!」それを見た人々は、さすがに三河の小倅の大胆剛毅に、感心したということです。

そんなエピソードもありつつ、竹千代は今川家に肩身の狭い人質生活を送っていました。

一方、当主竹千代を今川方に取られている松平家家臣団も…悲惨でした。領地から上がる年貢はほとんどが今川方に取られてしまい、自ら鋤鍬を取って百姓仕事をしなければならないしまつ。

その上、織田との戦となると松平家臣団が最前線に駆り出されました。織田方と戦が起こるたびに、松平家では兵士が死に、残された妻子の嘆き悲しみがちまたに満ちました。

「今川は松平の譜代衆を皆殺しにしようとしているのではないか」

そんな声まで起こるのでした。それでも松平家臣団は、

「いつか殿が岡崎に戻って来られる。その時こそ…」

そう言って、耐え忍ぶのでした。

よく徳川家康の一生を「忍」の一字になぞえらますが、この「忍」は家康個人の「忍」ではない。家康を支えた松平家臣団の「忍」であったのです。

弘治2年(1556)、15歳の竹千代ははじめて今川義元から許されて、墓参りのため岡崎へ帰省します。その時、古くからの家臣・鳥居忠吉(とりい ただよし)は、竹千代さまこちらを…。こ、これは…

見ると、たくさんの金銭や兵糧米がしまってあります。

「わが君がご帰国なさった暁には、お家を再興し、御家人を雇い、軍備を整える必要がありましょうから、今川の目を盗んで、密かにこれだけ、蓄えておりました」

「爺!!」

そんな、君臣の涙熱き絆の場面もあったのでした。

弘治元年(1555)元服。今川義元から一字もらって松平元信と名乗ります。弘治3年(1557)今川義元の甥の娘を妻とします。本名はわかりませんが、後に築山殿と呼ばれる女性です。二人の間には永禄2年(1559)男子が生まれます。幼名竹千代。後の岡崎信康です。

その頃、名を元信から元康に改めます。おそらく祖父清康をしたって一字もらったのでしょう。

解説:左大臣光永