豊臣秀吉(二十五) 天下人秀吉の最期

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醍醐の花見

慶長3年(1597)3月15日、秀吉は醍醐で盛大な花見を開きました。北政所以下、淀殿、松の丸殿、三の丸殿、加賀殿と側室が輿で到着し、次に前田利家の正妻・まつが輿に乗って到着しました。男では秀頼と前田利家のみが招かれました。

諸大名から女房女中1300人が集められ、茶屋が一番から八番まで立てられ、まことに盛大な宴となりました。

朝鮮では、日本軍が泥沼の戦いを強いられている真っ最中だったのですが!

宴の最中、側室の淀殿と松の丸殿が正妻である北政所からの盃をいただこうと争い、見かねた前田利家の妻・まつが、では私が…と中に割って入り、場をおさめるという一幕もありました。

伏見から醍醐まで、諸大名がものものしく警備しました。醍醐寺の座主義演は、秀吉の様子を見て、その死が近いことをさとり、一代の英雄の最期にふさわしい晴れ舞台を用意してやろうと、花見の準備をしたと伝えられます。

天下人秀吉の最期

醍醐の花見の2ケ月後の5月から秀吉は伏見城で病に伏すようになります。死をさとった秀吉は五大老・五奉行にくれぐれも秀頼のことを頼むと遺言しました。6歳の秀頼に対する愛情・心配がその文面からにじみ出ています。

病平癒のため神楽などを行いますが効果はなく…

さすがの秀吉も死を覚悟しました。

7月13日。秀吉は自分の死後の体制を考え、石田三成、浅野長政(あさの ながまさ)、増田長盛(ました ながもり)、長束正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)、前田玄以(まえだ げんい)を五奉行に任じ。

7月15日。大坂・伏見に諸大名を集め、11ケ条の遺言を出しました。また五大老の中で特に徳川家康を名指しして、

「後のことは頼みましたぞ。
秀頼が成人するまでは、政治を見てやってくだされ」

こう命じたことで、家康は五大老の筆頭扱いとなりました。

慶長3年(1598)8月18日。

秀吉は伏見城で亡くなります。享年62。

つゆとを(落)ち つゆときへにし わかみ(我が身 )かな
なにわの事も ゆめの又ゆめ

五大老
徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝(はじめは小早川隆景。隆景が死んだことにより上杉景勝となった)

五奉行
浅野長政(あさの ながまさ)、石田三成、増田長盛(ました ながもり)、長束正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)、前田玄以(まえだ げんい)

解説:左大臣光永