豊臣秀吉(十九) 刀狩り・太閤検地

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刀狩り

有力な農民(土豪)の中には武器をたくわえ、一向一揆と結びついたり領主にはむかう者がありました。たとえば肥後では天正15年(1587)新しく赴任した佐々成政が検地を行おうとすると、

「何が検地か」
「よそ者が、いらんこつたい」

猛反発をくらい、大規模な一揆が起こります。結局、佐々成政はこの時の一揆の責任を問われて切腹させられました。

「こういうことを繰り返してはならない。
百姓に力を与えないのが一番だ」

そこで天正16年(1588)7月に出されたのが、刀狩令です。三条から成りました。

一、諸国の百姓が刀・脇差・槍・鉄砲などの武器を持つことを禁止する。なぜならば、余計な武器を持つと年貢を怠り一揆を企てるからである。領主に従わない者は、厳しく罰する。

一、取り上げた武器は、方広寺の大仏を作るための釘や鎹(かすがい)にする。そうすれば百姓は救われる。

一、百姓は農具を持って農業に励んでおればよい。そうすれば子々孫々まで救われる。百姓を思うからこそ、刀狩り令を出すのだ。ありがたく思え

注意すべきは、この刀狩令は百姓に対して出されたのではなく、各地の大名や領主に出されたということです。領主としては所領地の百姓が一揆をくわだてず、農作業に専念すれば年貢もガッポガッポ入って、万々歳。どうじゃ!よい決まりごとだろうというわけです。

大名や領主から百姓に対する表向きの説明は、第二条・第三条に用意されています。方広寺の大仏建立に使う。ご利益があるぞ。こんなにも民を思っている秀吉さまはありがたいお方であると。

ムシのいい言い訳です。

取り上げた刀剣で使えるものは豊臣政権の大名たちに分配されました。

刀狩り令の本音は第一条に集約されています。一揆をふせぎ、年貢をガッポガッポ巻き上げること。それ以外に、ありません。

太閤検地

刀狩りとならび、秀吉が行った政策で有名なものが、検地です。

検地。

すなわち土地の広さを調べ、収穫高を測定することです。確実に年貢を取り立てるためです。秀吉は新しく領土を得るたびに大名を派遣して、ビシバシ検地を行いました。

秀吉以前にも検地はありました。北条早雲に始まり、信長も、各地の戦国大名も検地を行っています。しかし秀吉の検地は規模が違いました。全国規模で、しかも申告制ではなく、検地奉行という役人を全国に派遣して、実際に測量させました。

明智光秀を破った天正10年(1582)から秀吉は検地を行っています(山城検地)が、もっとそれ以前の、信長の奉行として行った播磨検地以降を「太閤検地」といいます。

正確に土地を測量し、評価し、年貢を取り立てる。

そのためにまず、やるべきことがありました。

度量衡の統一です。当時は升といっても、全国でいろいろな大きさのものが使われていました。関西と関東で全然違うなど、ザラでした。そこで秀吉は米殼の量をはかる升を「京枡」に統一します。また長さの単位も全国で共通にしました。共通にした上で、

その上で全国に検地奉行を派遣して、「検地帳」という帳簿を作成させました。土地の広さをはかるには「検地竿」と呼ばれる六尺三寸(約191センチ)の竿を使いました。

この竿の長さを「一間(けん)」として、一間四方を一歩、三十歩を一畝(せ)、十畝を一反(たん)、十反を一段としました。

しかし面倒なのは土地の評価です。

同じ水田といっても収穫が少ない水田もあれば、多い水田もあります。単純に土地の広さだけでは測れないのです。その上、検地の対象になったのは水田だけでなく屋敷もそうでした。人が住む屋敷と水田が、同じ基準というのは、どう考えてもおかしいですよね。

そこで、土地の1段あたりの予想収穫高を何段階かにランク分けしました。上田・中田・下(げ)田・下々(げげ)田というふうに。ようは、その土地一段あたり、どれくらい米が穫れるか、という話です。これを「石盛(こくもり)」といいます。

そして「石盛」に土地の広さを掛けたものが土地の価値…すなわち「石高(こくだか)」です。

石盛×広さ=石高

と覚えましょう。

よく3万石とか10万石とか言う、アレです。「十万石の大名」というのは、「十万石の米の収穫が予測される土地を持っている大名」という意味です。

解説:左大臣光永