豊臣秀吉(十三) 賤ヶ岳の合戦

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柴田勝家・羽柴秀吉 対立を深める

「秀吉の政権など、認められぬ」

清洲会議に不満をたぎらせた柴田勝家は、信長の妹・お市の方を妻に迎え、我こそは織田家をささえる重臣であると秀吉に示します。そして織田信孝・滝川一益と組んで反秀吉連合を結成。秀吉方と対立を深めて行きます。

対して秀吉は。

柴田勝家と戦うために、さしあたって必要なものがありました。

城です。

長浜城は清須会議で、柴田勝家に譲ってしまったので。

そこで秀吉は新しく獲得した山城国に、城を築きます。場所は明智光秀を破った山崎の天王山山頂。

城の名を山崎城といいます。山崎城は、柴田勝家と戦うことをハッキリと視野に入れて築かれました。

信長の葬儀

天正10年(1582)10月、秀吉は京都大徳寺にて、三法師を喪主して信長の葬儀を盛大に執り行います。これは単なる葬儀ではありませんでした。我こそは信長公の後継者である。柴田勝家でなく、我こそが。信長公の後継者であるぞ。わかったなと、内外に示すためのデモンストレーションでした。

先手を打つ秀吉

天正10年(1582)冬。

柴田勝家は越前北ノ庄城にいました。厳しい雪に閉じ込められて、動けません。

秀吉はそのスキに軍勢を動かし、勝家の甥・勝豊(かつとよ)の守る長浜城を包囲しました。

秀吉にとって長浜城は勝手知ったるかつての居城。加えて得意の調略で、すぐに柴田勝豊を降参させました。

雪が溶けたら柴田は必ず攻めてくる。

それに備えての、下地造りでした。

織田信孝、岐阜で挙兵するも…

「おのれ秀吉。お前の好き勝手にはさせん!」

岐阜城の織田信孝は、怒りをたぎらせていました。前の清須会議では秀吉のせいで後継者になれなかった上に、今回の秀吉による軍事行動です。ぐずぐずしておれぬと、岐阜で兵を上げる準備をはじめました。

「そうはいくか」

天正10年(1582)12月、秀吉はすばやく軍を動かし、岐阜城を包囲します。信孝は柴田勝家・滝川一益の軍事力をあてにしていましたが、柴田勝家は雪に閉じ込められて動けず、滝川一益は柴田勝家の命令がなければ動けない状態でした。

「うう…仕方無い。降参する」

織田信孝はあっけなく岐阜城を明け渡し、その上自分の母と娘を秀吉に人質として渡します。

こうして秀吉は長浜城と岐阜城をおさえました。雪解け次第、柴田勝家は必ず討って出て来る。それに合わせての、下準備でした。

秀吉、伊勢に侵攻

年明けて天正11年(1583)。

2月に入って、秀吉は滝川一益を討伐するために伊勢に侵攻します。滝川一益は柴田勝家と気脈を通じ、越前と伊勢から北と南から、秀吉を挟み撃ちにしようという構えでした。秀吉はその一翼を、もぎ取りに行ったのでした。

しかし…さすが信長の重心であった滝川一益。守りが固いです。滝川一益の居城である伊勢長島城。その手前の伊勢亀山城の攻略に、秀吉はさんざん手を焼かされます。時間だけが過ぎていきます。

柴田軍、越前から近江に侵攻

そうこうしている内に、越前の柴田勝家が動きました。

「滝川一益の危機じゃ。
もう雪解けまで待っておれぬ」

3月3日。柴田勝家軍は佐久間盛政を先鋒として越前北ノ庄城を出発。北近江に侵攻してきます。雪解けはまだなので、雪かき人夫をつかって雪を掘り崩しながらの進軍でした。

秀吉、近江に進撃

「いよいよ柴田が動いたか。思ったより早かったな」

秀吉は伊勢の亀山城にいましたがすぐに軍勢を動かし、近江に向かわせます。

3月17日。柴田勝家軍は先鋒の佐久間盛政は琵琶湖北方8キロの行市山(ぎょういちやま)に陣を構え、柴田勝家は行市山から北3.5キロ、柳ケ瀬山の玄蕃尾城(げんばおじょう)に本陣を置いていました。

対して秀吉は。

賤ヶ岳に桑山重晴、大岩山に中川清秀、岩崎山に高山右近を置いて、柴田郡との間に柵を築き、柴田軍と向かい合います。一方で若狭の丹波長秀に連絡を取り、若狭から越前に攻め込んで柴田軍の背後をつくよう、指示していました。

織田信孝、再度挙兵

「ああ!柴田勝家が、ようやく動いてくれたか!」

大喜びしたのが岐阜城の織田信孝です。織田信孝は昨年、秀吉に反旗をひるがえし、あっけなく降参させられました。そして母と娘を人質として差し出していました。屈辱です。それが、柴田勝家が北近江に進撃したことで強気になり、またも調子に乗ります。

「それっ、秀吉の城を焼き払え!」

岐阜城を出た織田信孝は秀吉方・美濃清水城、大垣城に放火し、秀吉に敵対する構えを示しました。

「殿、この状況、使えます」
「三成、お前もそう思うか」

秀吉は織田信孝の母を処刑すると、自ら兵を率いて長浜城を出て岐阜城攻めに向かい、4月16日、大垣城に入ります。しかし…秀吉にとって大垣城や岐阜城など問題でなく、これは「兵が退いた」と柴田勝家に油断させるための策でした。

柴田勝家方・佐久間盛政、大岩山に進撃

「よし秀吉が退いた。今こそ攻めよ」

柴田勝家は秀吉の誘いに乗ってきました。

4月20日。佐久間盛政を大将とする柴田軍4000が行市山を出陣。秀吉方・大岩山砦に向けて動き始めました。余呉湖の西を大きく迂回し、大岩山砦に攻めかかる佐久間盛政勢。

わぁーーーーわぁーーーーー

四時間にわたる戦闘の末、大岩山砦は陥落。城主中川清秀は最後まで砦を守り、自刃しました。

佐久間盛政はさらに攻めて、高山右近の守る岩崎山砦を落とすと、秀吉軍おそるるに足らずと、さらに突出します。

大返し

「柴田軍、動く」

その報は、即日、大垣城の羽柴秀吉のもとに届きました。

「よし。三成、柴田が乗ってきた。大返しじゃ」
「はっ」

同日午後四時頃、秀吉は15000の兵を率いて大垣城を出発。

馬を飛ばしに飛ばし…

5時間で北近江・木之本に着きました。

「それっ、総攻撃じゃ。佐久間盛政隊を蹴散らせ!」

わあーーーーっ

柴田方・佐久間盛政は勝ちにおごり、油断がありました。本隊から遠く離れ戦線か伸び切っていました。そこへ、襲いかかる羽柴軍。

賤ヶ岳七本槍

天正11年(1583)4月21日深夜2時頃、

賤ヶ岳付近で戦いが始まりました。

「福島正則ここにあり」

ずば、どしゅ。

「加藤清正。この名を覚えておけッ」

ざしゅ。ずば。

この時、秀吉の近習衆が大活躍をして、後世「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」とうたわれました。もっとも古い記録ではこの時活躍したのは「九人」とあります。小瀬甫庵『太閤記』で、はじめて「七人」とされました。「九本槍」ではゴロが悪かったのかもしれません。まあ…ふつうに「七本槍」のほうがカッコいいですからね。

「ひ、退けっ、退けーーっ」

柴田方・佐久間盛政はさんざんに切り崩されて、撤退していきました。

前田利家の離脱

さらに柴田軍にとって思ってもいない打撃がありました。前田利家が戦線を離脱したことです。おそらく前々から前田利家は秀吉に調略され、「柴田勝家には味方しない」と密約があったものと思われます。とはいえ、実際どうするのか。柴田につくか、秀吉につくか。前田利家は判断がつきかねていた。

そこへ、佐久間盛政が敗走したことで、やはり柴田はおしまいだと踏んで、撤退することで秀吉に協力したものと思われます。前田利家は塩津から越前に引き返していきました。

「前田殿が退いたぞ」
「なんだ、じゃあ我々も」

柴田軍に加わっていた他の者たちも、次々と撤退を始めました。柴田軍はもはやガタガタでした。

柴田軍、壊滅

「それっ、一気に叩け」

わあぁーーーーっ

秀吉軍は大挙して柴田軍に襲いかかります。もはや柴田軍に抵抗する力は残っていませんでした。秀吉方の、一方的な勝利となりました。

柴田勝家の最期

柴田勝家は越前・北ノ庄城に撤退。すぐに秀吉は近江・越前国境を超え、越前に侵攻。北ノ庄城攻めの先鋒を、前田利家に命じました。

つい昨日、柴田勝家を裏切った前田利家を、柴田攻めの先鋒として使おうというのです。本当にこちらに着いたのなら、柴田勝家を倒せるわけだ。忠誠心を見せてみろというわけです。

4月23日から秀吉軍による北ノ庄攻めが開始されます。追い詰められた柴田勝家には援軍のあてもなく、ただ一方的に滅ぼされるのを待つだけでした。24日、城に火が放たれます。

ごおーーーー

「すまぬ…市…」

燃え盛る炎の中、柴田勝家は妻・お市ともども、自害しました。その様子を『柴田合戦記』が語って言うことに

小谷(おだに)の御方(おかた)を始め、十二人の妾(しょう)、三十余人の女房達、唯今の最後を期(ご)して、念仏称名の声の裡(うら)にも亦涙欄干(らんかん)たり。譬(たと)へば、緑鬢紅顔(りょくびんこうがん)、楊柳(ようりゅう)の風に随(したが)ふ如く、桃花(とうか)の露を含むに似たり。如何(いか)なる邪険(じゃけん)の人も剣を取りこれを害せんや。

勝家思ひ切り取り寄せ、引き寄せ、返す刀にて心(むね)の下より臍(ほぞ)の下にいたるまで、たちきって、五臓六腑を掻き出(いだ)し、文荷(ぶんか)を呼びて、首を打て、と謂ふ。

文荷、後に廻り、首丁(ちょう)と打ち落とす。其(そ)の太刀(たち)にて腹を切って死す。其の外、股肱(ここう)の臣(しん)八十余人、或(あるい)は差し違へ或は自害し、天正十一年四月二十四日申(さる)の尅(こく)、かの城に楯籠(たてこも)る柴田が一類、悉(ことごと)く相果つるものなり。

『柴田合戦記』

実力者・柴田勝家が討たれたことにより、旧織田政権下で秀吉と対抗しうる者は徳川家康を残すのみとなりました。

解説:左大臣光永

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