豊臣秀吉(十二) 清洲会議

天正10年(1582)年6月27日、信長の後継者を決めるための会議が、尾張国清洲城で開かれます。

いわゆる清洲会議です。

集まった面々は羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興。織田家家臣団の四重臣でした。

「私は三男の信孝(のぶたか)さまを推す」

という柴田勝家の主張に対し、羽柴秀吉は、

「長男信忠さまの子・三法師(さんぼうし)さまこそ、後継者としてふさわしい」

天正10年(1582) 清洲会議
天正10年(1582) 清洲会議

三法師を出してきたのは秀吉の抜け目ない所でした。次男の信雄(のぶかつ)も三男の信孝(のぶたか)も、この年25歳。父の跡をつぐにはじゅうぶんな年齢です。しかし3歳の三法師ならば…秀吉が黒幕として操る余地はじゅうぶんにありました。

丹羽長秀・池田恒興も秀吉の側につきます。結局、明智光秀を討った羽柴秀吉のほうが発言力が強かったです。柴田勝家の意見は退けられます。

4日後、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の三人が集まっている所に、三法師を抱いた羽柴秀吉が現れると、は、ははーっと柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興は平伏。ここに、三法師が織田家の家督を継ぎ、三法師をあやつる秀吉が、新体制のトップと決まりました。

「おのれ秀吉。ワシは認めぬぞ…」

柴田勝家との対決は避けられないことになってきました。

解説:左大臣光永