豊臣秀吉(十一) 中国大返し・山崎の合戦

光秀の追撃

「まだ逃げ延びた者がいる。くまなくさがせ」

光秀は兵たちに命じて洛中の町屋に踏み込ませ、織田の落人狩りをさせました。その様子は熾烈を極めました。

しかし光秀にとって京都より心配なのは近江でした。安土城の守備隊が京都に攻め上ってくるに違いない。そうなる前に先手を打つのだと、京都から瀬田に軍勢を進めます。

瀬田城主・山岡景隆(かげたか)・山岡景佐(かげすけ)兄弟に強力を求めるも、

「我々は織田家から御恩をいただいている。協力はできない」

彼らはそう答えて、瀬田橋を焼き落としてしまいます。

「くっ…」

瀬田橋のたもとで、川を越せず、地団太を踏む明智光秀。仕方なく瀬田には守備隊を置いて、光秀は近江坂本まで引き返しました。光秀は瀬田橋を修理させ、5日に安土城に入ることができましたが、この3日間の遅れが、光秀にとって命取りとなりました。

中国大返し

「何と!殿が…!!」

秀吉が知らせを受けたのは3日の夜でした。

「なんという…何かの間違いではないのか」

茫然自失する秀吉。そこで黒田官兵衛が

「殿、これは天の与えた好機です。今こそ、天下をお取りください」

「官兵衛、お前はそんなふうに考えるのか。ワシを取り立てて下さったお方が、
討たれたというのに」

「今ぐずぐずしていれば、明智か、柴田か、滝川か…
殿以外の誰かが後継者の座に座り、天下を手に入れましょう。
それでよいとおっしゃるのなら、いつまでも落ち込んでおられるとよい」

「わかった…官兵衛。お前の言う通りだ」

秀吉はすぐに、行動に移ります。

「よいか、このこと決して口外するな」

味方に固いかん口令をしき、条件を大幅に引き下げた上で、毛利方とさっさと講和してしまいます。

6月4日。高松城主・清水宗治は小舟に乗せられ、切腹します。享年46。不利な状況の中、最期まで毛利に忠義を尽くしたことでした。

「さあ光秀とケンカじゃ」

秀吉軍2万5000。それも秀吉の直属でなく、織田信長の家臣たちです。しかし秀吉は彼らを自分の直属として組み入れると。

6月6日午後、陣払いをすませて、山陽道を東へ向かいます。

6月8日早朝。姫路城入り。

天正12年(1582)中国大返し
天正12年(1582)中国大返し

姫路城は中国攻略の基地だったので、兵糧も金もワンサと蓄えがありました。しかし秀吉は

「金も食料も、兵士たちに与えよ」

「殿、そんな無茶です」

黒田官兵衛が咎めますが、

「この戦、生きるか死ぬかの正念場じゃ。金や食料など残しておいても、何にもならぬわ」

兵士たちの士気は大いに上がりました。

この日は一日、姫路城で兵士たちと馬に休息を取らせ、明日出発という流れになりました。

そこへ真言宗の僧が秀吉を訪ねてきて、

「明日は二度と帰って来れない悪い日です。
出発は延期なさい」

「なに?二度と戻れない?それはむしろ吉日じゃ」

秀吉にしたら、中央で光秀と決着をつけたら、天下を握るつもりでいたのでしょう。そうなったらもう姫路になど戻ってくる必要はない。だから吉日だと。

翌9日。姫路を出発。

この間、秀吉は元信長の家臣たちにしきりに書状を送り、味方になるよう呼びかけていました。秀吉の得意技でした。

11日、尼崎に入り、織田信孝・丹羽長秀らを味方に引き入れます。

12日、秀吉は富田《とんだ。大阪府高槻市富田町》に入り、池田恒興・中川清秀・高山右近らと軍議を開きます。

天正12年(1582)中国大返し
天正12年(1582)中国大返し

「先陣は高山右近殿、第二陣は中川清秀殿にお願いする」

「心得た」

高山右近隊・中川清秀隊はその日のうちに出陣。高山右近隊は山崎に進み、中川清秀隊は天王山を押さえました。

山崎の合戦

同12日、光秀軍も山崎に進み、天王山の東および北に布陣します。この日は小競り合いのみで、翌13日夕刻から。本格的な合戦が行われました。

戦が始まってみると秀吉方は秀吉直属軍に加え、小田信孝隊、丹羽長秀隊、池田恒興隊…あわせて4万弱。

一方、明智光秀は信長を討った直後こそ2万の兵力を有していましたが、安土城や長浜城、坂本城の守りに兵力を割かれ、数を減らしていました。アッという間に切り崩されます。

「これは…かなわぬ」

光秀は御坊塚(ごぼうづか)の本陣を引き払い、山崎北東の勝竜寺城(しょうりゅうじじょう。長岡京市勝竜寺)に退きます。

そして夜になってから。

「近江坂本に退く」

夜中に、わずかな家来とともに逃げ出しますが、

途中。

「ありゃあ明智の残党だ!」
「殺せば金になるぞ」
「うっひょーー」

ずば。どす。ずしゃ。

「く、くぬう…」

農民に殺されました。殺された場所は伏見の小栗栖とも醍醐とも山科とも伝わっています。本能寺で信長を討って、わずか11日目のことでした。

光秀の首は秀吉により粟田口にさらされました。

解説:左大臣光永