豊臣秀吉(六) 朝倉・浅井を滅ぼす

信長の近江出陣

元亀3年(1572)2月、信長と足利義昭の関係は決裂。7月、信長は宇治で足利義昭を撃破、追放します。ここに足利幕府の歴史は幕をおろしました。京都を経て岐阜に帰還した信長。そこへ元亀四年(1573)8月、秀吉から喜びの知らせが届きます。

「近江山本山城の阿閉貞征(あつじ さだゆき)の調略に、成功しました!」

阿閉貞征は浅井長政の重臣であり、これを織田方に寝返らせたということは、今こそ近江攻略の絶好の機会といえました。

「よし」

即日、信長は出撃命令を出し、近江に出陣します。

小谷城を攻めとるために、小谷城近くの高月(たかつき。現滋賀県長浜市)に本陣を置きました。

そこへ越前から朝倉勢二万が北近江に侵攻してきました。

朝倉勢は高月北方の余呉(よご)・木野本(きのもと)に布陣しました。

雨の降りしきる中、織田信長は小谷城西の大嶽(おおずく)の砦に奇襲をしかけ、散々に打ち破ります。そして城兵を捕らえることなく逃がします。逃げ延びた城兵が朝倉義景の本陣に逃げ込んで、大嶽(おおずく)の砦が落ちたと報告する。そうすれば決断力の無い朝倉義景は、もはや勝ち目がないと見て、本国越前に撤退していくに違いないと、信長は考えたのでした。

信長の予想通り、朝倉義景軍は撤退を始めました。

朝倉攻め

「それっ、追撃せよ!」

わあーーーーっ

織田軍は撤退する朝倉軍を追いかけ、そのまま越前に入り、刀禰坂(とねざか。現福井県敦賀市)にて朝倉軍に追いつきます。

わあーーーー
わあーーーーーーーーー

弱り切った朝倉義景軍の背後から、襲い掛かる織田信長軍。

一方的な戦いでした。

朝倉義景軍はボロボロになって多くの将兵を失い、木ノ目峠を越えて逃げて行きますが、その後ろから織田信長軍が襲い掛かり、

朝倉義景は、朝倉氏代々の居城である一乗谷を放棄し、大野郡山田庄まで逃れます。その後ろから、織田信長軍が一乗谷に乱入し、乱暴狼藉を働く!

「ひい、ひいいっ…勝手に略奪しておれ。
この間に逃げおおせてやる」

しかし義景の命運はそこで尽きました。従弟の朝倉景鑑(かげあきら)が義景につめより、義景を切腹に追い込みます。義景の首は織田信長のもとに届けられました。

朝倉義景の母親と嫡男も探し出されて斬られました。

こうして越前に五代にわたって君臨した朝倉氏は滅亡しました。信長は朝倉氏の忠臣である前波吉継(まえばよしつぐ)を一乗谷に守護代として置き、

浅井攻め

「次は浅井討伐ぞ」

すぐに近江に向けて出陣します。忙しいことです!

「猿、こたびの戦、先鋒はお前に任せる」

「ははっ!」

元亀元年(1570)以来、秀吉は粘り強く浅井方の調略にあたってきました。その下地作りがあったからこそ、今の好機が得られたのでした。

(今度の戦は近江攻めの総仕上げ。その晴れ舞台、猿に与えてやろう)

信長にはそんな考えもあったでしょうか。

秀吉が中心となり小谷城に立てこもる浅井久政(あざいひさまさ)・長政(ながまさ)父子を攻めます。父浅井久政は自害に追い込まれ、息子・浅井長政は本丸に追い詰められ、2日間抵抗するも、

「もはやこれまでのようだ…」

妻・お市の方と三人の娘を前に、

「お前たちは逃げ延びよ」

「そんな、私はずっとあなた様と共におります」

「行くのだ!」

必死の思いで説得して、お市の方と3人の娘を逃がすと、長政は自害しました。嫡男の万福丸は家臣と共に越前へ逃がしましたが、途中、織田方に捕らえられ、関ヶ原ではりつけにされました。

ここに、朝倉氏に続けて浅井氏の歴史も幕を下ろしました。その後もお市の方には数奇な運命が待っていることはよく知られている通りです。

しかし越前朝倉氏を亡ぼしたことはかえって信長にとってマイナスになったかもれしません。というのは、越前朝倉氏がいなくなった後の越前は、一向宗の門徒によって支配されるようになります。そして一向宗門徒の背後にいるのは本願寺。信長にとってより扱いづらい相手を敵に回したこととなります。

一国一城の主となる

戦後の論功行賞で、信長は秀吉に小谷城と、もと浅井の北近江の領土13万石を与えました。文字通り、秀吉は「一国一城の主」となったのです。この時秀吉37歳。信長配下では坂本城の明智光秀につぐ、二人目の「一国一城の主」でした。

解説:左大臣光永