豊臣秀吉(五) 姉川の合戦

「これではマズい。京都と美濃の交通を分断されてしまう。
それだけは避けなければ」

そこで信長はいち早く琵琶湖の南一帯に有力武将を配置し、京都と美濃の間の通行を確保します。宇佐山(うさやま)城に森可成(もりよしなり)、永原(ながはら)城に佐久間信盛(さくまのぶもり)、長光寺(ちょうこうじ)城に柴田勝家、安土城に中川重政という顔ぶれでした。

こうして南近江の通路を確保すると、信長はいったん本国美濃に帰還し、態勢を整えると、浅井攻めのため近江に出陣します。

「こたびの近江攻め、一筋縄ではいかぬ。
猿、お前の得意技に期待しておるぞ」

「ははっ」

命じられて秀吉は、浅井方武将の調略に当たりました。戦で敵を蹴散らすよりも、交渉事のほうが向いていました。この頃、秀吉は近江方に強いパイプを持つ竹中半兵衛(重治)の仲立ちで、浅井方の武将たちを織田方に寝返らせることに成功します。

「でかした猿。これで下地作りはできた」

そこで信長は小谷(おだに)城(滋賀県東浅井郡湖北町)南に布陣します。しかし。小谷城はけわしい山の上にある山城。これを攻めるのは得策でない。そう判断した信長は、小谷城南方約9キロの、横山城(滋賀県長浜市堀部町)を最初の攻撃目標と定め、そちらに向かっていきます。

元亀元年(1570) 姉川の合戦
元亀元年(1570) 姉川の合戦

「それっ、信長軍は撤退を始めたぞ。攻めろ」

わあぁーーー、わあああぁーーーー

浅井長政軍が追撃してきますが、それを振り払い、振り払い、信長軍は姉川の南岸・龍ヶ鼻(りゅうがばな。現滋賀県長浜市)にまで移動します。その時、

おおおーーーー、うおおーーーーーー

「おお!徳川が!合流してくれたか!」

徳川家康の軍勢が到着しました。その数5000。

しかし、

浅井長政軍も強力な味方を得ていました。

わあーーーわあーーーーー

越前から駈けつけた、朝倉方の軍勢です。その数8000。

元亀元年(1570)6月28日午前10時頃、合戦が始まります。

織田・徳川軍25000。
浅井・朝倉軍14000。

数において織田・徳川が勝っていました。しかし

「この戦、負けられぬ!かかれーーっ」

わあーーーーっ

浅井長政は義兄である織田信長を裏切ったので、負ければ信長からどんな酷い目にあわされるか、わかったもんじゃない。勝利する以外に無い。まさに背水の陣。死にモノ狂いでこの戦いに望みました。

姉川を隔てて、

浅井軍は織田軍に、朝倉軍は徳川軍に、それぞれ当たります。

さて歴史に名高い姉川の戦いですが…詳しい戦いの様子はほとんどわかっていません。わかっていることは、

元亀元年(1570) 姉川の合戦
元亀元年(1570) 姉川の合戦

姉川をはさんで東に織田軍 対 浅井軍。
西に徳川軍 対 朝倉軍で戦いが行われたこと。

戦いはごく短時間で終わり、浅井軍が小谷城に撤退していったこと。

勝利した織田・徳川連合軍はもちろん、負けた浅井・朝倉連合軍にも大きな被害はなかったこと。

などが姉川の戦いについてわずかにわかっています。

織田徳川連合軍は撤退する浅井・朝倉連合軍を追って、小谷城付近まで追撃しました。

しかし浅井・朝倉との決着はつかず、戦いは元亀三年(1572)まで持ち越します。

解説:左大臣光永