豊臣秀吉(三) 美濃攻略

美濃侵攻

さて織田信長は弘治2年(1556)に斎藤道三が息子・義龍に討たれてから、何かにつけて美濃侵攻の機会を伺っていました。永禄4年(1561)義龍が死んで、息子の龍興が跡を継ぎます。

「今こそ好機」信長は墨俣川を渡り、西美濃に侵攻しました。なんと義龍が死んで二日目のことでした。素早い軍事行動でした。しかしこの時は織田方・斎藤方双方に被害が出るも決着はつかず、次回に持ち越します。

永禄6年(1563)信長は拠点を清洲城から小牧城(小牧市)に移します。腰をすえて美濃攻略に取り組むためでした。とはいえ美濃攻略はカンタンには行きませんでした。

出撃するたびに多くの将兵を討ち取られ、被害が出てしまいます。

さて美濃攻略において、秀吉は大きな働きをしました。戦においてではなく、調略においてです。

「坪内殿、悪いことは申しません。信長公はけして貴殿を悪くは扱いません。
そもそも、斎藤義龍に義があるとお思いですか?
どうか、お考えください」

「うむむ…わかりました。なぜか貴殿には逆らえぬ」

秀吉は持ち前の明るく人懐こい性格で、敵を説得していきました。

まずは坪内利定《つぼうち としさだ》の守る松倉《まつくら》城(岐阜県各務原市)を。次に鵜沼(うぬま)城(各務原市鵜沼南町)を。猿啄(さるばみ)城(岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)町)を、戦わずして降参させます。

「猿め、やりおるのう」

戦に勝って敵を破るよりも、戦わずして勝つこそ貴重であると、信長は秀吉の功績を大きく評価しました。

墨俣一夜城は、無かった

美濃攻略における秀吉の働きとして、誰でも知ってる有名なエピソードがありますね。

「ええい、誰か墨俣に城を築ける者はおらぬのか」

墨俣は長良川と揖斐川が合流する交通の要衝。ここに城を築けば、稲葉山城攻略は容易に進められる。そこで信長は何人も人をやるも、そのたびに敵に撃退され、大きな被害が出ていました。

そこで。

「殿、それがしにお任せください」

「ぬ…猿か。できるのか」

「私に考えがございます」

「よしやってみろ。見事城を築けたら、その城猿にくれてやろう」

こうして秀吉は城造りにとりかかります。

秀吉は上流からいかだで材木を運び、墨俣につくと一気に城を組み立ててしまいました。

「な、なんだこれは!」

「いきなり城があらわれたぞ!」

驚き焦る斎藤方兵士たち、城の内からヒュンヒュンと射殺され、多大な損害を出した。秀吉はまったく、身分の低い頃から築城に才能があることを示したのである…

という、有名な「墨俣一夜城」の話ですが、

信長についての一級資料である『信長公記』に墨俣城について一言も書かれていません。もし本当に墨俣に城を築いたなら美濃攻略についての重要事項ですから、そんな大切な話をはぶくはずがなく、したがって墨俣一夜城は後世の作り話として、現在ではほぼ否定されています。

竹中半兵衛についての俗説

もうひとつ、美濃攻略中の秀吉について、有名な俗説があります。

竹中半兵衛との出会いです。

美濃に竹中半兵衛というたいそう頭のキレる男がいる。これを味方に引き込みたい。そこで秀吉考えた。

ただ訪ねていっても断られるだけだろう。ならば浪人の姿に身をやつして…

「信長という方はたいそうな人物だそうだ。
どうだ、一緒に仕えてみないか」

そう言って、味方に引き込んだのだと。

二度訪ねて言っても留守で、三度目にようやく会うことができて、竹中半兵衛はわかりましたと信長のもとにくだった…というエピソードですが。

もちろんこれも後世の作り話です。三度目にあえたのは言うまでもなく、『三国志演義』で劉備が孔明を訪ねていった「三顧の礼」のパクリです。

解説:左大臣光永