豊臣秀吉(二) 信長に仕える

尾張に戻る

天文23年《1554》、18歳の秀吉は松下嘉兵衛の屋敷を後に、尾張に向かいます。今川への任官を求めていた秀吉が、なぜ正反対の尾張に引き返したのか?謎です。まあ、いったん実家に戻って母や姉に挨拶しておくか、くらいの気持だったかもしれません。

おそらく、道中針売りをしながら旅を続けたことでしょう。

尾張中村に戻った秀吉は、幼馴染一若と再会します。

「久しぶりじゃのう」
「おうおう、どうしとったか」

などと懐かしあった後、秀吉が一若の現状をきくと、仲間のガンマクと二人で信長公の小者頭《雑用係のリーダー》として仕えているとのこと。それに対して自分は奉公先を追い出された無足人。ああ…差がついたなあなどとコンプレックスを感じたでしょうか。

「とにかくお前、母上が心配しておられるぞ。
早く会ってやれ」

一若はそう言ってすすめますが秀吉は、

「でも俺はこの通り、奉公先を追い出された身。
会うのは…ばつが悪いのう」

「そんなことはどうでもええ!!親というものは
子がどうあっても心配なもんぞ」

一若に説得されて、秀吉はようやく母に挨拶をしに参上すると、

「母上」
「おうおう、よく帰ってきたねえ」

一通り母子のなつかしみを行った後、母は一若に頼みます。

「聞けば一若は信長公にお仕えしていると。
どうじゃろう。この子のことを、取り立てて
やってくれまいか」

そんな感じで、秀吉は信長の小者として取り立てられることになった…。

これは『太閤素性記』に書かれていることですが、実際どのように秀吉が信長に仕えることになったのか?多くの説があり、よくわかりません。

信長に仕える

とにかく秀吉は信長に小者として仕えることになりました。

前の松下屋敷の時のようにイジメられることもなく、今度の職場は和気あいあいとしたムードでした。

「よし。しっかり奉公するぞ」

張り切る秀吉。

この頃の話として、日本人なら誰もが知っている「あの」話がありますね。

熱心な奉公が認められて、信長の草履取りに命じられた秀吉。

ある冬の朝、信長が草履をはくと、

「む…温かい。さては猿め。ワシの草履を尻にしいておったな!」

「違います殿。懐に入れて、温めておったのです」

秀吉が着物をはだけると、草履の跡がある。

「猿め…ういやつよ」

という、あの話。もちろん後世の創作です。この話をはじめ、若い頃の秀吉が信長にいかに熱心に仕えたか示す数々のエピソードが色々と伝わっていますが、どれ一つとしてまともな史料には出てきません。

江戸時代に入ってから講釈師や軍記物の中で語られた話も多いです。そうしたエピソードが長く語り伝えれるうちに史実のように見なされ、ああ太閤さんも若いころ頑張ったんだなあ。俺も太閤さんのように頑張ろうと、秀吉人気が高まっていったわけです。

結婚・木下藤吉郎を名乗る

とにかく秀吉は奉公を頑張りました。その頑張りが認められて小人から小人頭に、さらに足軽へと出世します。

この間、永禄3年(1560)に信長は桶狭間で今川義元を破っています。おそらく秀吉も足軽として何らかの働きをなしたことでしょう。

永禄4年(1561)8月、秀吉は播州龍野の木下家から妻を迎えます。

「殿、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」

名をお禰(ね)といいました。

時に秀吉25歳、お禰14歳。そして妻の実家木下家から取って、木下藤吉郎と名をあらためました。

解説:左大臣光永