豊臣秀吉(一) 日吉丸

父の死

秀吉の出自については不明です。父は木下姓を持つ信長の鉄砲隊の足軽だったという説がかつてはまかり通っていいました。しかし、鉄砲が伝来した時期から見て、矛盾があるということで、現在は否定されています。木下という姓も、妻お禰と結婚してからのもので、父がもともと木下姓だった話は、ありえません。

また百姓としても苗字帯刀を許されていたか、水飲み百姓だったかと、いろいろ説がありますが、結局、「わからない」ということに行き着きます。秀吉の出生は「わからない」のです。

天文12年(1543)父弥右衛門は戦で受けた傷が悪化し、死にます。秀吉7歳の時です。ほどなく秀吉母(大政所)は筑阿弥という者と再婚します。筑阿弥は織田信秀の同朋衆をつとめていたことがありました。同朋衆とは茶の湯や身の回りの相手をする役目で、身分は低いものでした。

しかも筑阿弥が再婚した時はもう病気で同朋衆をやめていたので、生活は苦しいものでした。継父である筑阿弥は、幼い秀吉をあまり可愛がらなかったようです。関係はぎくしゃくしてきます。ついに口減らしのためか、…秀吉は光明寺という寺に預けられました。

寺に預けられる

ところがこの、秀吉が預けられた光明寺。どこにあったのか不明です。秀吉の出身地近くには光明寺という寺がいくつもありどの光明寺かハッキリしないんですね。

そもそも「光明寺に預けられた」という話じたい、小瀬甫庵『太閤記』にはじめて出てくることで、小瀬甫庵の創作という可能性があります。

とにかく寺に預けられました。

しかし、寺での生活は秀吉にはあわなかったようです。わんぱくをして仏像を壊したなどという話が伝わっています。そんなこともあったでしょうか…

「お前のようなヤツは寺に置いとかれん」

ついに寺を追われ、実家に戻ってきます。

流浪時代

秀吉母、つくづく困ったことでしょう。

「とにかく食べて行かないといけません。
手に職をつけなさい」

「母上、わかりました」

それから秀吉は家を出て、さまざまな職業を転々としたようです。山で薪を刈ったり、近江の鍛冶師に弟子入りした話が伝わっています。…しかし、いずれもうまく行かず、結局実家に戻ってきます。

継父・筑阿弥は呆れます。

「お前は本当にどうしようも無い。何やってもダメだな」

「面目ないです…義父上…」

またも義理の父と子の関係はぎくしゃくしていきました。見かねた秀吉母は、ある日秀吉を呼んで言います。

「ここに亡くなったお前のお父様が残した一貫文があります。
これでどうとでも身を立てなさい」

こうして秀吉は家を出されました。時に天文20年(1551)秀吉15歳でした。

清洲

「ほおーーーっ、これが都会か!」

秀吉は清州の町に出ました。当時、清須は守護である斯波氏の屋敷がありました。しかし斯波氏は応仁の乱で勢いを落とし、実際に力を持っていたのは守護代の織田氏でした。織田氏のもと、清洲の町はにぎわいを見せていました。

「ここなら商売のネタが転がってそうだ…おっ」

道の傍らに、ござを広げて木綿針を売っている者がいました。

「針か…軽くて、いいな。
おい、この一貫文で、
買えるだけ針をくれ」

「どうすんだ」

「行商人をやりながら、東へ行くんだ」

「東ってどこだ」

「駿府に行って、武士になるんだ。今川義元さまに仕えようと思ってる」

「ははは、駿府の今川義元さまが、お前みたいな子供を相手にするかね」

笑われても秀吉は平気でした。道すがら、木綿針を売って当面の生活費を稼ぎながら、東海道を東へ向かいます(『太閤素性記』)。

時に天文20年(1551)秀吉15歳。

この間、講談などで有名なことに、矢矧の橋で蜂須賀小六と出会ったエピソードがあります。日吉丸が矢矧の橋で寝ていたところ、野伏の頭領・蜂須賀小六にとがめられた。そこを、かえって食ってかかったので、面白いヤツと蜂須賀小六は日吉丸を手下にしたと。『鉄道唱歌』には

見よや徳川家康の
おこりし土地の岡崎を
矢矧の橋に残れるは
藤吉郎のものがたり

と歌われています。残念ながらこの話は、後世の作り話です。この時代、矢矧川に橋はかかってませんでした。

松下嘉兵衛に仕える

さて日吉丸は駿府の今川義元のもとを目指して東海道を東へ下ります。途中、浜松に通りかかります。浜松の小さな城・頭陀寺城(ずだじじょう。静岡県浜松市南区頭陀寺町)をあずかる松下嘉兵衛(まつしたかへえ)という城主がいました。松下嘉兵衛は今川義元の家臣でした。この松下嘉兵衛が道で異様な風体の者を見ました。

「さても異形なる者かな。猿かと思えば人なり人かと思えば猿なり。これ、どこから来たか尋ねてまいれ」

松下嘉兵衛がそう言って家来に尋ねさせると、

「尾張から来たよ」

「幼少の身で、遠路何事があって来たのだ」

「奉公するためさ」

そこで松下嘉兵衛は笑って

「ならばワシに仕えるか」

「ええっ、いいんですか。おそれ入ります」

こうして、松下嘉兵衛は曳馬城の飯尾豊前守連龍《つらたつ》の元に日吉丸を連れていきます。飯尾豊前守は同じく今川義元の家臣であり嘉兵衛には上司にあたりました。ちなみに曳馬城は後の浜松城です。

「道にて異形の者を見つけました。猿かと思えば人、人かと思えば猿。ご覧あれ」

召し出された小僧はまことに猿そっくり。

「ほう、これはよい。これ、子供たちを呼べ」

呼ばれて飯尾豊前守の子供たちが出て来ると、猿を見て大喜び。栗を与えると、日吉丸はそれをぱくぱく食べて、おおいに愛嬌がありました。こんなふうに日吉丸はあっちでもこっちでも愛嬌をふりまき、可愛がられたということです。

松下屋敷

「さあ、夢にまで見た武家奉公だ。がんばるぞ」

実際、日吉丸はがんばりました。草履取りからはじめて納戸役まで出世した、と伝承に言われています。そんな日吉丸を松下嘉兵衛も可愛がります。日吉丸はよくやっておるのうと。

「新参者のくせに生意気だ」

古くから松下家に仕えてきた小物たちはおもしろくないです。何かにつけて日吉丸をいじめます。物がなくなるたびに、日吉丸が盗んだと言って攻撃しました。

主人の松下嘉兵衛はこれを不憫に思いました。そこで日吉丸を呼び出します。

「気の毒だが、…お前は去ったほうがいいだろう。
ここに三貫目ある。道中の足しにしなさい」

「だ…旦那さま」

こうして日吉丸は松下家を後にした…というのが通説ですが。

日吉丸が松下屋敷を去ることになった理由についてはいろいろな説があり、はっきりわかっていません。

解説:左大臣光永