北条早雲(四) 相模から上総へ

永正6年(1509)8月、北条早雲こと伊勢宗瑞は、かねてから敵対していた扇谷上杉氏を討伐しようと、大軍を率いて小田原城を出発。相模東部に侵攻し、江戸城近くまで迫ります。

迎え撃つ扇谷上杉氏は山内上杉氏と同盟を結び、伊勢宗瑞の軍勢を各地で撃退。押しに押して小田原城近くまで押し返します。そして小田原城の東の守りである鴨沢城で激しい合戦となり、激しい合戦の末、伊勢宗瑞の軍勢は破れ、扇谷上杉氏の勝利となりました。

こうして伊勢宗瑞の東相模への侵攻は、いったんは頓挫したのでした。

相模全域を手中に

「おのれ両上杉。やりおる。だがワシはあきらめぬぞ」

伊勢宗瑞は冷静に機会をうかがっていました。

永正9年(1512)6月、しばらく手を結んでいた扇谷上杉氏と山内上杉氏がふたたび抗争を始めます。

「今だ」

これぞ機会と見た伊勢宗瑞は、扇谷上杉氏との和睦を破り、ふたたび扇谷上杉氏の領土に侵攻します。

永正9年(1512)8月、伊勢宗瑞は最初の標的として岡崎城(神奈川県伊勢原市岡崎。現無量寺)を攻略。岡崎城は扇谷上杉方の有力武将三浦義意(みうらよしおき)が守っていましたが、たちまち伊勢宗瑞方に破られ、三浦義意は三浦郡西端の住吉城(神奈川県厨子市)まで撤退します。

「敵はもろいぞ。攻め立てろ」

翌永正10年(1513)、伊勢宗瑞と三浦道寸の間で鎌倉周辺で合戦が行われました。三浦道寸は三浦義意の父親です。結果は、伊勢宗瑞が道寸方を破り、道寸は立てこもる住吉城を弟の三浦道香に任せて放棄。本拠地・三崎新井城まで撤退しました。

その後、伊勢宗瑞は鎌倉に入ります。この頃の鎌倉は荒れ果てていました。都の華やかさはありませんでした。鶴岡八幡宮も荒廃し、建物も激しく損傷し、中にも赤橋は崩れ落ちていました。

「こりゃあひどいですなあ」
「いやいや、ここから立て直すのだ」

枯るる樹にまた花の木を植え添へて
もとの都になしてこそみめ

枯れて行く木に、また花の咲く木を接ぎ木して、また元の都の華やかさを取り戻してみよう、と詠んだと伝えられます。

「さて三浦攻めは長期戦となりそうだな」

そこで伊勢宗瑞は、大船の北(鎌倉市植木)に玉縄城を築き、次男の伊勢氏時をここに配置します。三浦道寸を三浦半島に押し込める策です。地図を御覧ください。まさに三浦氏にとって背水の陣ですよね。

同年7月、伊勢宗瑞は住吉城に攻め込み、道寸の弟・三浦道香を自殺に追い込みます。ここに至り、三浦道寸・義意父子は三崎新井城に孤立することとなりました。

「おのれ伊勢宗瑞め。三浦を討たせるな」

扇谷上杉氏は、いったん抗争中の山内上杉氏と和解し、伊勢宗瑞の領土に侵攻し、伊勢宗瑞による三浦一族攻撃の手をゆるめんとします。

このように、扇谷上杉氏が伊勢宗瑞を攻めたてたために三崎新井城攻略は容易には進みませんでしたが、伊勢宗瑞は気の長い男でした。

玉縄城から三崎新井城をけん制し、三浦道寸を三浦半島に押し込めること実に二年。二年目の永正10年(1513)7月、三崎新井城を包囲して、援軍を遮断してから、総攻撃を仕掛け、ついに三崎新井城を落としました。城主三浦道寸・義意父子は自害しました。

「ううう…無念。三浦の命運もここまでか」

三浦の家臣たちが討ち死にした死体によって、港一面が血に染まり、油をためた壺のようになった…ここから「油壷」という地名が生まれます。

三浦半島に勢力をはっていた豪族・三浦一族は源頼朝の旗揚げにも大きな働きをしましたが、1247年鎌倉幕府五代執権・北条時頼によって宝治合戦という戦いで滅ぼされました。その後、南北朝時代に復活を果たすも、今回、伊勢宗瑞によって滅ぼされたのでした。

その伊勢宗瑞の子孫が後に北条を名乗ることは、三浦氏にとっては一度ならず二度までも北条氏に滅ぼされたとうことで、なんとも皮肉な三浦と北条の確執と言うべきでしょうか。

ここに伊勢宗瑞は三浦郡を奪い、相模全域を手中におさめる戦国大名となりました。伊豆侵攻から24年が経っていました。

上総侵攻

相模全域を手に入れた伊勢宗瑞。しかしその野望はとどまりませんでした。

「次は上総じゃ」

当時、上総では真里谷武田(まりやつたけだ)氏と小弓原(おゆみはら)氏が上総北部の領有をめぐって争っていました。伊勢宗瑞は真里谷武田の要請を受け、真里谷武田方として小弓原攻めに参加します。

「武勇のほまれ高い早雲殿がお味方についてくれるとあれば心強い」
「はっ、武田殿、手を取り合い戦いましょうぞ」

伊勢宗瑞は三浦半島から海路、上総にわたり、真里谷武田と同盟し小弓原氏を攻め、おそらくは多大な戦果を挙げました。

その戦功により真里谷武田氏より東上総の藻原(千葉県茂原)近辺の土地を与えられています。

小弓公方創設

さてこの頃、下総の古河公方家では長年にわたって当主政氏と嫡男の高基が争っていましたが、政氏は敗北が決定的になると扇谷上杉氏を頼って岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)に移り、その後は隠棲しました。

こうして嫡男の高基が三代古河公方に就任していました。この高基の弟を、足利義明(よしあき)といいます。もともとは出家して雪下殿(ゆきのしたどの)と言われていましたが、還俗して義明と名乗っていました。

義明は当初、兄である高基に協力していましたが、高基が三代古河公方に就任すると、対立するようになります。

「おのれ。父を無理やりに追い落として、自分が公方になるとは。けしからぬ」

さて義明は高柳御所(埼玉県久喜市)にいましたが、真里谷武田氏の要請を受けて上総に出兵し、小弓氏を攻めてこれを敗走させます。

しかし敵を敗走させた後も、義明は上総を離れませんでした。そのまま、小弓城に居座ります。

「この地で、兄に対抗するのだ」

翌永正15年7月、足利義明は小弓城近くに小弓御所を創設。以後、小弓公方と呼ばれることとなります。

伊勢宗瑞、扇谷上杉氏と同盟

ここでややこしいことに、真里谷武田氏は小弓公方たる足利義明を支持していましたので、その真里谷武田氏と同盟関係にあった伊勢宗瑞も、結果として小弓公方支持という形になりました。

また、扇谷上杉氏も小弓公方支持でしたので、結果として伊勢宗瑞は、それまで敵対していた扇谷上杉氏と、ともに小弓公方支持ということで、同盟関係となりました。

隠居

永正15年(1518)頃、伊勢宗瑞は嫡男の氏綱に、

「氏綱、わしは隠居する」

「な…何をおっしゃいますか父上!まだまだ父上には頑張っていただきたく思います」

「聞け氏綱。ワシは長年にわたって扇谷上杉と争ってきた。それがいきなり同盟、といっても、向こうも納得できるものではなかろう。それが代が替り、お前の代になれば、扇谷上杉との同盟も、うまくいくであろう」

「父上…そこまでのご配慮でしたか」

…このように、小弓公方の創設により、これまで敵対関係にあった扇谷上杉氏と同盟関係になったことが、隠居の大きな契機になったようです。

こうして伊勢宗瑞は隠居し息子の氏綱が二代当主となりました。氏綱は本城を小田原城に置き、隠居した伊勢宗瑞は引き続き伊豆の韮山城に住まい続けました。

翌永正16年(1519)8月15日、伊勢宗瑞は息を引き取ります。一代で伊豆・相模を奪取し、戦国の世を幕開けさせた風雲児の、その波乱に満ちた生涯は幕をおろしました。

享年は通説では88ですが、これは米寿から取った適当な数字で、信用できません。実際にはもっと若かったと思われます。よく言われる北条早雲は大器晩成という話も、したがってあやしいです。

遺骸は箱根湯本に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根湯本)が作られ大徳寺の以天宗清(いてんそうせい)を開山として招き、埋葬されました。

次回「毛利元就(一) 毛利元就登場」に続きます。
解説:左大臣光永