北条早雲(三) 小田原攻略

延徳3年(1491)4月、伊豆を統治していた堀越(ほりこえ)公方・足利政知(まさとも)が亡くなると、伊豆は混乱状態になります。

その中に長男の茶々丸が、継母の円満院と異母弟・潤童子(じゅんどうし)を殺し、堀越公方家の家督を掌握しました。

将軍足利義澄は足利茶々丸の討伐を駿河守護・今川氏親に命じ、今川氏親は実際の伊豆攻略を、伊勢宗瑞に命じました。

「伊勢宗瑞よ。伊豆に侵攻し、足利茶々丸を討て」
「ははっ」

そして、長きにわたる戦いの末、伊勢宗瑞は足利茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆一国を手に入れました。まさにこの時、戦国時代が幕開けしたのでした。

小田原 北条早雲像
小田原 北条早雲像

小田原城攻略

この頃関東では、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏が覇権を争っていました。伊勢宗瑞は扇谷上杉氏についていましたが、山内上杉についていたのが相模国西部を支配する大森藤頼(おおもりふじより)でした。

まず扇谷上杉氏より今川氏に指令が下ります。

「山内上杉氏に加担する大森藤頼を討ち、小田原城を奪取せよ」
「ははっ」

そして今川氏親は、家臣の伊勢宗瑞に実際の小田原攻略を命じます。

小田原城
小田原城

「兄上、次は相模ですか」
「うむ。お前の働きにも期待しているぞ弥次郎」

伊勢宗瑞と弟・弥次郎による小田原城攻略の正確な時期はわかりません。その状況もわかりませんが、軍記物にはその状況が面白く語られています。いわく、

小田原城を治める大森藤頼(おおもりふじより)に伊勢宗瑞は書状を送った。

「なになに、鹿狩りをやっていたら貴殿の領国内に鹿が逃げ込んだので、これを捕まえるために勢子を入れてよいですか…ははは、なんじゃそんなことか。入れてやれ」

勢子とは狩りの時大声を立てたりして獲物を追い立てる役のことです。

許可がおりて門が開かれると、伊勢宗瑞は鹿狩りの勢子に見せかけた軍勢を、

「それっ、進め」

ガサガサガサガサ…

小田原城の領内に軍勢を進ませ、牛千頭を用意してその角に松明をくくりつけ、

「かかれーーっ」

どだどだどだどだ

「なんじゃあの大群は…う、牛だーーっ」

どががががかーーーっ

とメチャクチャに蹂躙させた、という話が軍記物には語られています。もちろんこれは創作であり、実際の小田原城攻略の様子がどうであったか、信用できる史料は一つも残っていません。

むしろ史料が無いことが、伊勢宗瑞の小田原城攻めが一瞬のスピード勝負で、隙が無いことを示しているかもしれません。

こうして伊勢宗瑞は伊豆に続けて相模西部も手に入れることとなりました。

ここで注意すべきことは、伊勢宗瑞はあくまでも今川氏親の家臣として行動している、ということです。よくイメージされるように、伊勢宗瑞が単独の野心で、下剋上して、小田原城に攻め入ったわけでは無いです。

あくまでも扇谷上杉氏から今川氏に指令がいって、その今川氏の家臣として命令を受けて、伊勢宗瑞は小田原城を攻め落としたのであり、この時点では今川氏の家臣としてふるまっています。単独の野心で小田原城攻略をしたわけではない、ということです。

そして今川氏親は、伊勢宗瑞のことを生涯、今川家の家臣と考えていました。後に今川家から離れて伊勢宗瑞が独自の動きをするようになってからも、今川氏親は伊勢宗瑞を今川家の家臣と生涯考えていました。

小田原城奪取後、伊勢宗瑞は旧大森氏の土地をすべて没収し家臣に再分配しました。伊勢宗瑞自身は伊豆の韮山城を本城とし、小田原城を支城として、勢力を拡大していきます。

「さて小田原城は手に入れたが、ワシの権力はあくまでも今川の土台があってのこと。今川の土台が弱くなってはひとたまりも無い」

そのことを伊勢宗瑞は十分にわかっていました。そこで永正3年(1506)、つづけて永正5年(1508)に、三河に侵攻し今橋城を落とし、また甲斐に侵攻し、今川氏の領土を拡大することに努めました。

初の検地

伊豆に続けて相模西部をも手に入れた伊勢宗瑞でしたが、それまでの武将と違ったことは、単に拠点を奪えばよしとしたのでは無い、ということです。しっかりと経営を視野に入れていました。

「弟よ、これからは正確に土地を測量し、検知を行うことが大切じゃ」

「兄上、領民からガッポガッポ取り立てるんですね!」

「そうではない。逆じゃ」

「逆?」

永正3年(1506)、歴史上記録されている戦国武将によるはじめての検地が行われます。

「ありがてえ!一割も取り分が増えるなんて!」
「ああ早雲さま、さまさまだこりゃ」

土地ごとに正確に田畑の面積を測量し、その土地の基準値をこれにかけて、そこからさまざまな控除を引いて、納税の基準となる貫高(かんだか)を決めました。いわゆる貫高制です。

しかも百姓から搾取するのではなく、逆に百姓の取り分を増やしました。

それまでの五公五民にかわり、四公六民としたのです。

「よろしいのですか兄上、税収が減りますが!?」
「よいのだ。情けは人のためならず。国を富ませるためにはまず民を富ませなければ」

しかし一方で伊勢宗瑞は領民に土地代以外の労役・軍役を課しました。けして一方的に領民を甘やかすだけでなく、飴と鞭を冷静に使い分けていたのです。

検知は伊勢宗瑞が奪取した相模西部全域において行われたと思われます。

相模東部・武蔵侵攻

正月二日の夜、伊勢宗瑞は夢を見ました。それは

大平原に大きな杉の木が二本立っているのを、鼠が一匹来て根の所からそろそろと食って、ずずーーんと倒してしまった。その後鼠はキキーーゴーーーと大きな寅に化けた。

はっと夢から覚めた伊勢宗瑞。

「ううむ。関東はこれ両上杉の国である。二本の杉は両上杉であろう。そしてワシは子年の生まれじゃ。つまり、両上杉を食らって寅になれということか。ううむ目出度い夢じゃ」

大いに喜び、さまざまな貢物を三嶋大社に奉ったと『北条五代記』にはあります。

(『北条五代記』「三嶋参籠付霊夢事」より)

もちろん実際には夢だけで両上杉氏と戦おうと決めたわけでは、ないです。

小田原城奪取後、伊勢宗瑞は主筋であった両上杉氏(相模国守護扇谷上杉氏・関東管領山内上杉氏)と対立するようになっていました。どういう理由で対立したかはわかりませんが、永正6年8月、伊勢宗瑞は敵対する扇谷上杉氏の上杉朝良(うえすぎともよし)を討つために、その領内に侵攻を開始しました。

今回は今川氏からの命令ではなく、独自の判断による軍事行動でした。小田原城奪取までの伊勢宗瑞はあくまでも今川家の家臣として軍事行動を起こしていましたが、今回は違いました。独自の判断でした。

これより伊勢宗瑞は今川家の権力から独立し、戦国大名としての独自の道をいよいよ本格的に動くようになっていきます。

「それっ、扇谷上杉を、攻め滅ぼせーーっ」

永正6年(1509)8月、伊勢宗瑞は大軍を率いて相模東部に侵攻。しかし力攻めだけではありませんでした。伊勢宗瑞は扇谷上杉氏の宿老・上田蔵人入道政盛とひそかに連携し、上田蔵人入道の拠点である武蔵国神奈川の権現山城(横浜市神奈川区幸ヶ谷)の内部から武装蜂起させます。

「なにい、上田が背いた??ななな、なんたること!」

あわてふためく扇谷上杉朝良。伊勢宗瑞はさらに勢いづき、江戸城近くまで攻め寄せ、いったんは退きますが、翌永正7年5月頃、再度武蔵国に侵攻。

しかし、扇谷上杉の軍勢に山内上杉の軍勢が援軍を送り、伊勢宗瑞は激しい反撃を受けることとなりました。

伊勢宗瑞は武蔵における拠点であった権現山城を奪われ、さらに住吉城を攻撃されます。扇谷上杉・山内上杉の連合軍は小田原城近くまで進撃してきました。

ここで人馬が疲弊したのでいったん扇谷上杉勢は引き退きますが、再度進撃してきて、小田原城の手前の守りである鴨沢城(神奈川県中井町)にて激しい合戦となります。

「伊勢宗瑞を倒せーーーーっ!」
「敵は両上杉氏。徹底してやれ!」

キン、カン、カカーン

激しい合戦の末、扇谷上杉勢の勝利となりました。この合戦の直後、伊勢宗瑞は両上杉氏と講和したようです。ここに伊勢宗瑞の相模侵攻は、いったんは頓挫したのでした。

次回、北条早雲篇の最終回となります。
北条早雲(四)相模から上総へ」お楽しみに。

解説:左大臣光永