北条早雲(ニ) 伊豆侵攻

北条早雲こと伊勢宗瑞は、文明8年(1476)、駿河の今川家のお家騒動に介入します。この時、今川家では当主今川義忠が亡くなり、義忠の嫡男・龍王丸(たつおうまる)が継ぐか、分家の小鹿範満(おじかのりみつ)が継ぐかでもめていました。

そこで龍王丸の叔父にあたる伊勢宗瑞(いせそうずい)は、今川家のお家騒動に介入して、紛糾する今川家家臣たちに、言います。

「龍王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行する。そして龍王丸が成人後は家督を龍王丸に譲り渡す。この条件でよろしいか?」

「わかりました…」

こうして今川家のお家騒動はいちおう収まりましたが、果たして小鹿範満はおとなしく約束を守ったか?

もちろん、守りません。

小鹿範満を滅ぼす

文明19年(1486)龍王丸は15歳となりました。もう元服しているので約束に随い小鹿範満は龍王丸に家督を譲り渡すべきところですが、

「ふん、そんな口約束、どうでもよいわい」

約束を反故にしました。

京都にいる伊勢宗瑞はこれを聞きましたが、すぐには動かず、状況を冷静に見守っていました。

文明18年(1489)扇谷上杉定正の家臣・太田道灌が主君・扇谷上杉定正に殺害されます。

「今こそ攻め込む時!!」

伊勢宗瑞は動き出しました。太田道灌は強力な小鹿範満支持者であったのです。その太田道灌が死んだ今こそ、攻め込むに支障はなくなったためです。

「おのれ小鹿範満。約束を反故にするとはけしからん」

手勢を率いて駿府の今川館に小鹿範満を襲いました。小鹿範満の最期については不明ですが、おそらく殺されたと思われます。

こうして伊勢宗瑞は自分の甥にあたる、17歳の龍王丸を今川家当主して立てました。今川氏親(うじちか)です。

「宗瑞、よくやってくれた。お前のおかげで晴れて今川家の当主になることができた」
「ありがたきお言葉にございます」

以後、伊勢宗瑞は今川家の中で重要な役割をになっていくこととなります。

通説ではこの時、伊勢宗瑞は駿河に下方十二郷(静岡県富士市)・興国寺城(沼津市)を与えられ駿河における拠点を得ました。

またこの頃出家します。それまでは伊勢宗瑞と名乗っていましたが、法名を早雲とし、早雲庵宗瑞と名乗りました。出家したのは今川家のしがらみから離れて自由に動けるようにとの判断からだったでしょうか。

伊豆侵攻

延徳3年(1491)4月、伊豆を統治していた堀越(ほりこえ)公方・足利政知(まさとも)が亡くなると、伊豆は混乱状態になります。その中に長男の茶々丸が、継母の円満院と異母弟・潤童子(じゅんどうし)を殺し、堀越公方家の家督を掌握しました。

「まだ安心ができぬ。世に逆らう者は殺せ、殺せ」

その後も茶々丸は自分に反対する家老を殺害し、伊豆国内は混乱状態に陥りました。

京都では将軍足利義澄が、伊豆の足利茶々丸の動向をうかがっていました。

「おのれ足利茶々丸…わが母のカタキ。断じて許さぬ」

足利茶々丸が殺害した継母の円満院は、将軍足利義澄の実の母でした。そこで足利義澄は、駿河の今川氏親に足利茶々丸討伐を命じます。命じられて、今川氏親は伊勢宗瑞を召し出します。

「伊勢宗瑞よ。伊豆に侵攻し、足利茶々丸を討て」
「ははっ」

明応2年(1493)。伊勢宗瑞は今川氏・扇谷上杉氏の協力を得て、駿河から伊豆国・西海岸に侵攻。

「それっ、一気に攻め落とせ」

わあーーーっ

堀越御所(伊豆国市四日町)に足利茶々丸を襲います。

茶々丸方の軍勢は次々と打ち破られますが、伊豆国内には足利茶々丸支持派も多く、

「茶々丸さまを討たせるな」

とばかりに抵抗しこれに守られ、足利茶々丸は伊豆半島を南下しつつ抵抗しました。

一方、伊勢宗瑞は堀越御所近くに韮山城を築き、ここを拠点としました。

ちなみに、堀越御所のある場所は鎌倉幕府北条氏発祥の地である北条の地です。後に二代氏綱が北条の姓を名乗ることと強く関係してきます。

降参者への扱い

さて伊勢宗瑞は降参してきた敵や、支配地の領民に対してどのように当たったでしょうか?

「よいか。降伏してくる者は過去を問わず家来に取り立てるのじゃ」

「ははっ」

…こういう感じでしたので、韮山城城下には多くの武士たちが集まりました。

「いや~早雲さまって方は太っ腹だなあ」
「俺ら、殺されるかと思ってたら、家来に取り立てられるなんて」
「しかも今までより収入上がるぞ」
「よし、俺は早雲さまのもとでガンガン働くぞ」

…このように、やる気が出るのでした。

病人へのはからい

また伊勢宗瑞は伊豆の村落を視察するに、気になることがありました。

「なんだこれは」

どの家にも病人が伏していました。全体では1000人ほどもいたでしょうか。

「どうしたというのだ」
「実は流行り病で…働き手も次々と死んでしまい、大変なことです。
親が子を捨て子は親を捨て、どこへとも知れず行ってしまいます」

「なんと不憫なことよ…これ、この者たちを医師に診せ、薬を与えよ」

こうして領民は一人も死ぬことがなく、回復したということです。

「ああ、ありがたや。早雲さま、いつの日かこの御恩に報いたいと思います」

「鎧甲冑を着て、鬼神のように恐ろしいと思ったが、お心は優しく慈しみに満ちておる…」

このように領民は伊勢宗瑞のはからいに感謝しました。

「情けは人のためならず。この領民たちを見捨てて行ってしまうならば、彼らは皆死んでしまう。それは最終的には国家にとっての損失になるのだ」

しかしその後も足利茶々丸派の抵抗は激しく、伊豆統一は簡単に進みませんでした。足利茶々丸は山内上杉氏・甲斐の武田氏をたより庇護を求めますが得られず、ふたたび伊豆に戻り南伊豆の深根城(ふかねじょう)にこもりました。

その間、伊勢宗瑞は遠江にも侵攻し、今川家の領土を広げることに尽力しました。

ついに明応7年(1498)8月、伊勢宗瑞は深根城に茶々丸を攻め、茶々丸を自殺に追い込みます(足利茶々丸の死については諸説あり)。直後に深根城は陥落。

ようやく伊豆は平定されました。ここに伊勢宗瑞は堀越公方足利氏を討伐し、伊豆一国の支配者となったわけです。まさにこの時、下克上の世・戦国時代が幕開けしたと言えます。

次回「北条早雲(三)小田原城攻略」に続きます。

解説:左大臣光永