清少納言と紫式部

一条朝をいろどった女流文学者といえば、誰もが清少納言と紫式部の名を挙げるでしょう。しかしその有名さのわりには、二人がどんな生涯を送ったかは、ほとんど伝わっていません。

清少納言

清少納言(966ころ-?)の本名は不明ですが一説には「諾子(なぎこ)」だったといわれます。「清少納言」は中宮定子のもとに宮仕えする際に定子から授けられた女房名です。「清」は清原氏。「少納言」は親類の誰かが少納言だったためと思われます。

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清少納言の属する清原氏は代々の和歌や漢文の家系でした。父清原元輔、曽祖父清原深養父、そして清少納言自身も中古三十六歌仙に数えられ、三人とも『百人一首』に歌が採られています。

清少納言は父清原元輔が59歳の時に生まれました。父清原元輔は『後撰和歌集』の選者として「梨壷の五人」の一人に数えられ、また歌人として知られる源順(みなもとのしたごう)、大中臣能宣らと交流がありました。清少納言はそういう文学的にめぐまれた空気の中、利発で明るい少女として成長していきました。

橘則光との結婚

981年頃、名門橘氏の嫡男橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し翌年則長を生みます。橘則光は『宇治拾遺物語』に盗賊三人に囲まれ逆にやつけた話が採られています。『宇治拾遺物語』がどこまで真実かはわかりませんが、武勇にすぐれていたことには間違い無いようです。しかし清少納言とはそりがあわず、ほどなく離婚します。

ついで991年頃、清少納言は父ほど年の離れた摂津守 藤原棟世(せっつのかみ ふじわらのむねよ)と再婚し後年女流歌人として知られることになる小馬命婦(こまのみょうぶ)をもうけます。

正暦4年(993年)頃冬、藤原道隆の娘で一条天皇に嫁いでいた中宮定子のもとに女房として仕えます。この時中宮定子から「清少納言」の女房名を授けられます。

この年中宮定子18歳。清少納言28歳くらい。清少納言はこの10歳年下の女主人・定子を『枕草子』の中で絶賛しています。

中宮さまは素晴らしい、美しい、優しい、気品がある、教養がある、太陽のように絶賛しています。読んでいるほうがこそばゆくなるほどです。

また定子も清少納言をとてもかわいがりました。

定子の没落と死

しかし幸福な時代は長く続きませんでした。清少納言が定子のもとに宮仕えをはじめた2年後の995年、定子の父藤原道隆が亡くなり、かわって道隆の弟道長が台頭します。

定子と彰子
【定子と彰子】

藤原道長は長女の彰子を無理やり一条天皇の中宮とし、一人の天皇に二人のお后がいる「一帝二后」の状態となります。また定子の兄弟伊周(これちか)・隆家らを失脚させ大宰府送りにします。

それまで華やかだった定子のサロンも廃れていきます。権力者藤原道長をおそれて一人去り二人去り…しかしその中にあって、清少納言はひたすら一途に定子に仕え続けました。

そんな清少納言に、心無い噂が立ちます。敵である藤原道長方に内通していると。清少納言はこの噂によほど心を痛めたのか、宮中を退いて隠棲しています。そしてこの頃に『枕草子』を書き始めたと見られています。

清少納言は藤原道長に個人的な怨みがあるわけではなく、むしろ尊敬していました。中宮定子から「例のおもひ人」と冷やかされたこともありました。しかし道長方に立って定子と敵対しているかのように見られるのは、清少納言としては心外なことでした。

その後定子からの呼びかけに答えて清少納言はふたたび宮中に上がりますが、藤原道長からの圧力は日に日に増していきました。ついに定子は出家して尼になり、心身ともに疲れ果て、1000年、24歳の若さで没しました。

『枕草子』は中宮定子の没落や死については一切語りません。ただ定子のサロンが華やに輝いていた時代のことだけを、楽しく美しく華やかに描いています。

なので『枕草子』を数章でも読んでみると、なんて楽しいんだ、きらびやかなんだと頬がほころぶと思いますが、その楽しい宴はわずか数年の出来事で、その先には暗黒の巷が待ち受けていたことを考えると、なおさら『枕草子』という作品が感慨深く思えます。

おそらく清少納言は定子の一番輝いていた時代、そして自分にとっても一番楽しかった黄金時代だけを切り取って、後世に伝えようとしたのではないでしょうか。

定子没後の清少納言について、詳しいことは伝わっていません。

(まず夫摂津守藤原棟世(ふじわらのむねよ)を頼って摂津へ下り、晩年は月輪寺(がつりんじ つきのわでら)そばの月輪山荘に隠棲したとされます。月輪寺の場所は東山と愛宕山、二つの説分かれています)

紫式部

一方、紫式部は、生没年未詳。本名未詳。平安時代中期、一条天皇の時代に活躍した女流文学者。『源氏物語』の作者として知られます。家集『紫式部集』、日記『紫式部日記』があります。

父は学者であり歌人である藤原為時(ふじわらのためとき)。母は藤原為信(ふじわらのためのぶ)の女。

生前の女房名は「藤原」から「藤式部(とうしきぶ)」であり、「紫式部」は死後の呼び方と見られています。

「紫」は『源氏物語』のヒロイン紫の上から「式部」は父の役職名「式部丞(しきぶのじょう)」に由来します。

幼くして母と姉を失い、弟(もしくは兄)の惟規(のぶのり)とともに父のもとで育てられます。

ある時、弟の惟規が父為時について『史記』を勉強していました。横では姉の式部が聞くともなく聞いていました。

「さあ繰り返すのだ。『力は山を抜き気は世を』」…
「『力は…』…ええと…」

「なんじゃお前は、ちっとも勉強に身が入らないなあ」

ところが横で聞いていた式部は、

「●?●?●?」

よどみなく答えます。

「ああ…お前が男子であったなら」

父為時はそう言って悔しがりました。少女時代の式部の聡明さを伝える逸話です。

996年、越前守となった父に従って北陸に下り、翌々年帰京。父の同僚の山城守 藤原宣孝(やましろのかみ ふじわらののぶたか)と結婚し翌年一女・藤原賢子(ふじわらのかたいこ)を生みます。百人一首にも採られている後の大弐三位です。

しかし結婚生活は長く続かず、2年目の1001年、夫宣孝は亡くなります。この年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めたと見られ、その評判によって1005年一条天皇中宮彰子のもとに出仕することになります。

内にこもりがちで人と打ち解けない式部は、はじめての宮仕えにとまどったようですが、しだいに打ち解けていきました。

ある時一条天皇が式部が『日本書紀』を読んでいることを知り感心されます。その話が宮中に広まってしまい、式部はまわりの女房たちから『日本紀の局(にほんぎのつぼね)』とあだ名されるようになりました。

しかし式部自身はそのようにもてはやされることを嫌い、なるべく目立ちたくないと思っていたようです。

このあたり、自分の文才をはつらつと表に出した清少納言とは対照的です。

『紫式部日記』には、式部が先輩の女房から「どうして漢字の書など読むのですか。昔はお経でさえ女は読まなかったものです」とたしなめられる場面があります。

女は漢字など読むべきではない。下手に才気ばしって男の真似なんかして漢字の書物を読んでいると、ロクなことにならないという根強い考えがありました。

途中5年ほど中断をはさみながらも中宮彰子に仕え続けましたが、その後の消息は不明です。

「清少納言と紫式部が出会っていたら?」

誰もが妄想するところですが、清少納言が宮中を去ったのが長保三年(1001年)ごろ。それから5・6年を隔てた寛弘4年ごろ紫式部が出仕しています。

おそらく二人が直接顔をあわすことはなかったと思われます。清少納言が紫式部を評した文章は、今のところ発見されていません。

(紫式部の墓は島津製作所紫野工場の隣に小野篁の墓と並んで立っています(京都市北区堀川北大路通下ル西)。墓の西側には、紫式部が晩年を過ごしたという雲林院の跡があります)

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解説:左大臣光永

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