実朝暗殺

右大臣拝賀の夜

1219年(建保七年)正月二十七日。
酉の刻(午後六時)…。

ちらちらと粉雪が舞う中、
鎌倉鶴岡八幡宮では一千名の武士たちが
後鳥羽上皇から下された枇榔毛の牛車のまわりを
警護していました。そこに乗る人物こそ、
三代将軍源実朝です。

鶴ケ丘八幡宮
鶴ケ丘八幡宮

鶴ケ丘八幡宮
鶴ケ丘八幡宮

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この日、実朝は、
右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮参拝に向かっていました。
警護の武士は、一千名に上りました。

実朝は昨年の12月、右大臣に叙せられ、この日の夕方から
拝賀式のために鶴岡八幡宮に参詣することになっていました。

すでに数日前に実朝の妻の兄である大納言坊門忠信はじめ、
五人の公卿が祝賀のために鎌倉に到着していました。

北条義時 列を離れる

実朝のいる大倉御所から鶴岡八幡宮の社殿までは
わずか500メートル足らず。
その間を1000名あまりの武士がかがり火を炊いて警護します。

鶴ケ丘八幡宮
鶴ケ丘八幡宮

後鳥羽院より拝領した車が雪の中にわだちの跡を残して進み、
実朝はきちんと束帯姿に正装して、
五人の公卿を従えておごそかに歩いていきます。

実朝の横を進むのは、執権・北条義時です。
この日、実朝の太刀持ちを務めていました。

鶴ケ丘八幡宮
鶴ケ丘八幡宮

二代執権北条義時はこの年57歳。父時政とともに頼朝の旗揚げを支え、頼家時代は宿老として、実朝時代は執権として、その功績は大きなものでした。一方、和田義盛を挑発して「和田合戦」の原因を作るなど、父時政に似て陰謀家の面もあったようです。

実朝一行が鶴岡八幡宮の楼門に入ったあたりで、北条義時の様子がおかしくなります。

「うううぅ…」

「ん?どうしました義時殿?」

「悪寒がします。この寒さですからなあ」

「風邪ですか?」「そのようです」

「大変ですなあ。早く帰って休まれたほうがよろしいですよ。
お役のことは、私にお任せください。」

北条義時は、源仲章に太刀持ちを任せ、
しばらく鶴岡八幡宮の社殿で休んだ後、
小町の自分の館に引き返しました。

夕方からちらちらと降り始めた雪は、やがて視界をさえぎるほどの大雪となり、いつしか二尺も降り積もっていました。

ぺえーー、ぺえーー、
どん、どこどん、どん、どこどん

鶴岡八幡宮の社殿では、実朝の右大臣拝賀の儀式が
おごそかに執り行われます。

雅楽の音が鳴り響く中、

はさっ、はさっ、はさっ

神官が、大幣(おおぬさ)を実朝の頭にかざして、お祓いをします。

不吉な予言

源実朝はこの年28歳。頼朝の次男で、兄頼家の後を継いで将軍に就任しました。しかし政治の実権は執権の北条義時が握り、実朝は政治にはほとんど関与できませんでした。そして実朝自身、自分はお飾りにすぎないことをよく知っていました。

現実生活への絶望。その分、実朝の関心は文化面に向かいました。京都の朝廷文化にあこがれを持ち、特に和歌には熱心でした。藤原定家に和歌を習い、後鳥羽院が『新古今和歌集』を編纂した時は誰よりも楽しみに、まっさきに受け取りました。

武士としてはじめて右大臣に就任したのは、実朝の朝廷贔屓なのをみて京都の公家たちが、幕府と朝廷のつなぎ役として役立つと考えたことがあります。

右大臣に至るまで、実朝の出世の早さは異常でした。
昨年1月、権大納言、3月左近衛大将兼左馬寮御監(さめりょうごげん)、
10月内大臣。そして12月右大臣です。

世間ではひそかにこれを「位打ち」と噂しました。
「位打ち」とは分不相応な位を与えて相手を破滅させる、
一種の呪いです。

木曽義仲がかつて後白河法皇から
次々と官位を与えられ、破滅していったことは、
まだ人々の記憶に残っていました。

また、当時京都の三条に建立された最勝四天王院は、
実朝を呪うことを目的としているとも噂されました。

また後鳥羽上皇は、奈良や比叡山の寺寺に
執権北条義時を呪詛するための修法を行わせていたともいいます。

京都と鎌倉の間では、このように穏やかならぬものがありました。
それでも実朝は、右大臣に叙せられることを拒みませんでした。
むしろもっと、もっとと急激な出世を望んでいた感があります。

「今は征夷大将軍だけでよしとすべきではないですか。
あまりに急な出世というものは、子孫繁栄につながりません」

幕府長老格の大江広元が実朝に苦言を呈した時、
実朝は答えました。

「どうせ源氏は予の代で終わるのだ。ならば
できるだけ出世して、一門の名誉にしておきたい」

またある時、側近が実朝の髪の毛をすいていた時、

「これは公式な予の形見じゃ」

ぷつっと髪の毛を一本引き抜いて髪をすいていた者に与えました。

公式、とは?形見とは?
どういう意味なのか、わからないながらも
畏れ多くも将軍さまが自ら引き抜いた髪の毛なので、
粗略にも扱えず、「ははっ」とおし頂き、懐にしまいこみました。

まさか本当に実朝の「形見」になろうとは この時点では誰も思ってもみませんでした。

不吉な予言は、他にもありました。

ある大雪の降る日。実朝は縁側から雪にもかかわらず可憐に咲く
梅を眺めて、詠みました。

出ていなば 主なき宿と成ぬとも
軒端の梅よ 春をわするな

菅原道真が左遷される前に詠んだ歌の本歌取りですが、
後で考えるとあまりにも不吉で、死を感じさせるものでした。

飛び出した人影

夜になって儀式は終わり、一行は社殿を退きます。

ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ、

深く降り積もった雪を踏んで、実朝は進んでいきます。

その時、

鶴岡八幡宮の石段の木の陰にひそむ、頭巾をかぶった、
僧形の人影がありました。

「八幡宮の大銀杏」
「八幡宮の大銀杏」

「はあ…はあ…はあ…はあ…」

雪の中に、白い息が出ないように必死に息を殺します。

ぎゅっ、ぎゅっ、

「はあ…はあ…はあ…はあ…」

実朝が一段一段、石段を降りていく、その時、

頭巾をかぶった僧形の人影が
ばっと飛び出し、

実朝の衣の裾をバフッとふみつけ、

「あな!!」

ばさああっ

「ああ!鎌倉殿」
「鎌倉殿!!」

雪の上に倒れた実朝に、人影は、
太刀を振り上げて、

「親の敵はこう討つのだ!!」

ズバアアーーー

真白き雪の上に、鮮血が広がります。

「お、あ、あわわ、曲者!曲者ーーッ」

実朝の太刀持ち役をつとめていた源仲章が、
声を上げますが、

賊は、たった今実朝の首をはねた、その同じ太刀で、

ドスーーーーッ

「ぐっはああぁ」

がくっ…

太刀持ち役の源仲章の腹を差し貫きます。

賊は、実朝の首をひっ掴んで、高くさしあげ、
鶴岡八幡宮の石段の上から、大声で叫びます。

「我こそは、
八幡宮別当公暁なりーッ。
父の敵を討ち取ったぞーーーッ!!」

「追え!逃がすな!!」

しかし公暁は追手の追撃をかわし、実朝の首を持ったまま、
いずこかへと逃げ去っていきました。

犯行後の公暁

「はあ…はあ…はあ…はあ…」

ただでさえ寒い雪の中、全速力で走ってきたので、白い息がますます白く出ます。

源公暁はこの年、20歳。幼名を善哉(ぜんさい)といい、母は賀茂六郎重長(為朝の孫)の娘です。4歳の時、父である頼家は将軍の地位を追われ、将軍には頼家の弟の実朝が就任しました。そして翌年頼家は伊豆修善寺で北条氏に殺されました。

6歳の時、公暁は北条政子のはからいで、鎌倉鶴岡八幡宮別当尊暁に預けられ、僧となる道を歩みはじめました。公暁は一門の菩提を弔う役を背負わされたのでした。

さらに翌年、北条政子のはからいで実朝の猶子(ゆうし)となります。猶子とは「なお子のごとし」。子に準じる扱いということです。ただし元の親との血縁関係は切れず、名乗りも元のままです。

12歳の時大津の三井寺で伝法灌頂を受け受戒します。しばらく三井寺で活動していましたが、建保5年(1217年)18歳で鎌倉へ戻って来てやはり政子のはからいで鶴岡八幡宮別当に就任しました。

犯行を終えた公暁は鎌倉雪の下北谷にある、後見人・備中阿闍梨の家に戻ります。まだ血のしたたる実朝の首をごとりと床に置いて、こう冠を整えたかもしれません。首を横に置いたまま、かっかっかっかと飯をかきこみます。

公暁は縁故のある御家人・三浦義村のもとに人を遣わして伝えました。

「今や将軍はいない。私こそが関東を治めるにふさわしい。よろしく取り計らえ」

三浦義村の妻は公暁の乳母でした。また三浦義村の子の駒若丸は、鶴岡八幡宮において公暁の弟子でした。そういった縁を頼ってのことでした。知らせを受けた三浦義村は、

「まずは私の館へお越しください。お迎えの兵士を出しましょう」

公暁のもとにはそう伝言し、一方で執権北条義時のもとに使者を立てます。公暁の居場所がわかりましたと。

「すぐに公暁を誅殺べし!!」

執権北条義時の命を受けて、三浦義村配下の長尾定景が、公暁討伐の討手として選ばれます。

長尾定景は黒革威の鎧着て、雑賀次郎以下五名を引き連れて、公暁のたてこもる雪の下備中阿闍梨の家に向かいます。

公暁の最期

一方、備中阿闍梨の家にいた公暁は、使いの者が遅いので心配になってきました。

「なにか問題が起こったのか。もしや裏切られたか…?」

からっと障子を明けて、雪の中飛び出します。

ざっ、ざっ、ざっ、ざっ

雪を踏んで、鶴岡八幡宮の裏手の嶺を登って行ったところ、

「あっ!」
「うおっ!」

中腹の道で、ばったり長尾定景とはちあわせました。

「くぬう!ただでやられて、なるものか」
「別当公暁、覚悟!!」

キン、カン、キーン

雑賀次郎が公暁に飛びき、長尾定景が取り押さえて、ついに公暁の首を掻っ切りました。

北条政子と実朝の供養塔のある寿福寺の参道
北条政子と実朝の供養塔のある寿福寺の参道

北条政子と実朝の供養塔近く
伝北条政子と実朝の供養塔近く

北条政子の供養塔
伝北条政子の供養塔

実朝の供養塔
伝実朝の供養塔

『吾妻鏡』の原文では…

建保七年(1219)正月 大 廿七日 甲午(きのえうま)。霽(はれ)。夜に入り雪降る。二尺餘(あま)り積る。

今日、將軍家(しょうぐんけ)右大臣の拝賀の爲、鶴岳八幡宮へ御參(ぎょさん)す。酉刻(とりのこく)御出(おんいで)。

路次(ろじ)の随兵(ずいひょう)一千騎也(なり)。

宮寺(ぐうじ)の樓門(ろうもん)に入(い)ら令(せし)め御(たも)う之時、右京兆(うけいちょう)、俄(にわか)に心神に御違例(ごいれい)の事有り。

御劔(ぎょけん)を仲章(なかあきら)朝臣(あそん)に讓り、退去し給ふ。神宮寺(じんぐうじ)に於(おい)て、御解脱(ごげだつ)之後、小町の御亭(おんてい)へ歸(かえ)ら令(し)め給ふ。

夜陰(やいん)に及び、神拝の事終り、漸(ようや)く退出令(せし)め御(たも)ふ之處(ところ)、當宮別當(とうぐべっとう)阿闍梨(あじゃり)公曉(くぎょう)石階之際于(せきかいのきわに)來(きた)るを窺(うかが)ひ、劔(つるぎ)を取り丞相(じょうしょう)を侵し奉る。

其の後、隨兵等(ずいひょうら) 宮中于(ぐうちゅうに)馳せ駕(が)すと雖(いえど)も、讎敵(あだてき)を覓(み)る所無し。

或人(あるひと)の云(い)はく、上宮之(うえみやの)砌(みぎり)に於(おい)て、別當阿闍梨(べっとうあじゃり)公曉(くぎょう)父の敵(かたき)を討つ之由(よし)、名謁被(なのらる)ると云々(うんぬん)。

之(これ)に就(つ)き、各(おのおの)、件(くだん)の雪下(ゆきのした)本坊于(ほんぼうに)襲い到り、彼(か)の門弟(もんてい)悪僧等(あくそうら)、其(そ)の内于(うちに)篭(こも)り、相戰(あいたたこ)う之處(ところ)、

長尾新六定景与(ながおしんろくさだかげと) 子息 太郎景茂(たろうかげもち)、同じき次郎胤景等(じろうたねかげら)先登(せんと)を諍(あらそ)うと云々(うんぬん)。

勇士之戰塲に赴く之法、人以て美談と爲す。遂に悪僧敗北す。闍梨(じゃり)此(こ)の所に坐(おは)し給は不(ず)。軍兵(ぐんぴょう)空しく退散す。

諸人(しょにん)惘然(ぼうぜん)之外(のほか)他(た)無し。爰(ここ)に阿闍梨(あじゃり)彼(か)の御首(おんくび)を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨之(びっちゅうあじゃりの)雪下(ゆきのした)北谷宅于(きただにのたくに)向被(むかわれ)、膳(ぜん)を羞(すす)める間(かん)、猶(なお)手於(てを)御首(おんくび)から放不(はなさざる)と云々。

使者 弥源太(やげんた)兵衛尉於(ひょうえのじょうを)義村(よしむら)に遣(つか)は被(され)、今將軍之闕(けつ)有り。吾(われ)專(もっぱ)ら東關之長(とうかんのおさ)に當(あた)る也。

早く計議(けいぎ)を廻らす可(べし)し之由(のよし)示し合は被(さ)る。是(これ)、義村(よしむら)息男(そくなん)駒若丸(こまわかまる)、門弟に列するに依(より)て、其の好(よしみ)を恃被(たよらる)る之故歟(のゆえか)。

義村(よしむら)此(こ)の事を聞き、先君の恩化(おんか)を忘不之間(わすれざるのかん)、落涙(らくるい)數行(すうぎょう)。更に言語に不及(およばず)。少選(しばらく)して、先ず蓬屋于(ほうおくに)光臨(こうりん)有る可(べ)し。

且(かつう)は御迎(おんむか)への兵士を獻(けん)ず可(べ)し之由(のよし)之(これ)を申す。使者退去之後、義村使者を發(はっ)し、件の趣於(おもむきを)右京兆(うけいちょう)に告ぐ。

々々(けいちょう)左右(そう)無く、阿闍梨を誅(ちゅう)し奉(たてまつ)る可(べ)し之由(のよし)、下知(げぢ)し給ふ之間(のかん)、一族等(いちぞくら)を招き聚(あつ)め評定を凝らす。

阿闍梨者(あじゃりは)、太(はなは)だ武勇に足り、直也人(じきなるひと)に非(あらず)。輙(たやす)く之(これ)を謀る不可(べからず)。頗(すこぶ)る難儀爲之由(なんぎのたるのよし)、各(おのおの) 相議す之處(ところ)、

義村(よしむら)勇敢之器(ゆうかんのうつわ)を撰ば令め、長尾新六(ながおしんろく)定景於(さだかげを)討手(うって)に差す。定景(さだかげ)遂に辞退に不能(あたわず)。

座を起(た)ち黒皮威(くろかわおどし)の甲(よろい)を着て、雜賀次郎(さいかじろう)以下郎從(ろうじゅう)五人を相具(あいぐ)し、阿闍梨(あじゃり)の在所(ざいしょ)、備中阿闍梨宅于(びっちゅうあじゃりたくに)赴(おもむ)く之刻(のとき)、阿闍梨者(あじゃりは)、義村の使い遲引(ちいん)之間(のかん)、鶴岳(つるがおか) 後面之峯(こうめんのみね)に登り、義村宅于(よしむらたくへ)至らんと擬(ぎ)す。

仍(よっ)て定景與(さだかげと)途中に相逢(あいあ)う。雜賀次郎(さいかじろう)忽(たちたま)ち阿闍梨(あじゃり)を懷(いだ)き、互に雌雄を諍(あらそ)う之處(ところ)、定景(さだかげ)太刀を取り、闍梨(じゃり)の首を梟(きょう)す。

是、金吾將軍(きんごしょうぐん)〔頼家〕の御息(おんそく)。母は賀茂六郎(かものろくろう)重長(しげなが)が女〔爲朝の孫女(そんじょ)也〕。公胤僧正(こういんそうじょう)に入室。貞曉僧都(ていぎょうそうず)受法(ずほう)の弟子也。

定景(さだかげ)彼(か)の首を持ち皈(かえ)り畢(おわんぬ)。即ち義村、京兆(けいちょう)の御亭(おんてい)に持ち參(まい)る。々主(ていしゅ)出居(でい)にて其(そ)の首を見被(みら)る。

■右京兆 北条義時。 ■丞相 実朝。

『吾妻鏡』 建保七年(1219)正月大七日甲戌

慈円の『愚管抄』では少し状況が違います。

夜に入りて奉幣(ほうへい)終(おわり)て、宝前(ほうぜん)の石橋をくだりて、扈従(こしょう)の公卿 列立(れつりつ)したる前を揖(い)して、下襲(したがさね)の尻引(しりひき)て笏持ちて行きけるを、法師の行装(ぎょうそう)・兜巾(ときん)と伝物(いうもの)したる、馳(はせ)かかりて下襲(したがさね)の尻の上にのぼりて、かしらを一の刀には切て、倒(たふ)れければ、頸(くび)を打ち落として取りてけり。

追いざまに三四人を同じようなる者の出(いで)きて、供の者追い散らして、この仲章(なかあきら)が前駆(ぜんく)して火振りてありけるを義時(よしとき)ぞと思(おもい)て、同じく切ふせて殺して失せぬ。

義時は太刀を持て傍らに有りけるをさへ、中門にとどまれとて留めてけり。大方用心せず、さ伝(いう)ばかりなし。皆 蛛(くも)の子を散すがごとくに、公卿も何も逃げにけり。かしこく光盛はこれへは来で、鳥居にもうけてありければ、我が毛車(けぐるま)にのりて帰りにけり。皆散り散りに散りて、鳥居の外なる数万(すまん)の武士これを知らず。

此法師(このほうし)は、頼家が子を其(その)八幡の別当になして置きたりけるが、日ごろ思ひ持ちて、今日かかる本意(ほい)を遂げてけり。一の刀の時、「親の敵(かたき)はかく討つぞ」と伝(いい)ける、公卿ども あざやかに皆聞けり。

かくし散らして一の郎等(ろうどう)とおぼしき義村(よしむら)三浦左衛門と伝者(いうもの)のもとへ、「我、かくしつ。今は我こそは大将軍よ。それへゆかん」と伝(いい)たりければ、この由(よし)を義時に伝(いい)て、やがて一人、この実朝が頸(くび)を持たりけるにや、大雪にて雪のつもりたる中に、岡山の有けるを越えて、義村がもとへ来ける道に人をやりて打てけり。とみに討たれずして切散らし切散らし逃げて、義村が家のはた板のもとまで来て、はた板を越えて入らんとしける所に討ち取りてけり。

慈円『愚管抄』より

特に、『吾妻鏡』では義時が体調が崩れたといって太刀持ちを辞して源仲章に任せるのが、『愚管抄』では実朝みずからが楼門のところに義時を「とどまれ」と言っています。これは大きな違いと言えます。

翌1月28日。実朝の北の方は悲しみのうちに出家します。ついに首がみつからないまま、実朝の遺体は勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の横に葬られ、御家人百人以上が実朝を悼んで出家します。

実朝の死により、頼朝、頼家、実朝、源氏三代の血筋は途絶えました。

つづき 承久の乱

解説:左大臣光永

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