最澄と空海(二) 天台宗のはじまり

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渡唐

最澄の加わった第14次遣唐使団は803年(延暦22年)、
一度難波を出港していました。

しかし、途中暴風雨にあって中止となり、
最澄らは九州に待機していました。

この間、どういうツテがあったのか、
空海が遣唐使団に加わります。

そして翌804年(延暦23年)、
遣唐使船はふたたび難波を出航します。
この時空海は第一船に乗っていました。

一方、最澄は昨年から九州で待機しており、
難波からの遣唐使船到着を待って、第二船に乗り込みます。

時に最澄38歳。空海31歳。

最澄は一時滞在で身分の高い還学生。
空海は長期滞在で身分の低い留学生。

二人の立場は大きく違いましたが、
後の日本仏教界を率いる二人の巨人は、
同じ遣唐使団に加わっていました。

ただし二人がこの段階で直接顔をあわせていた可能性は低く、
ハッキリ直接会った記録は帰国後のこととなります。

博多から、大陸めがけて漕ぎ出す遣唐使船。

「いよいよ外海かあ。大丈夫かなあ」
「大丈夫だ。われわれには御仏の御加護がある」

遣唐使にとって一番怖いのは嵐でした。

造船技術も航海技術もお粗末な時代で、
さらに嵐にみまわれたら目もあてられません。

遣唐使船の中には航海を祈る祈祷師も乗り込んでいましたが、
誰もが不安にかられます。

そして、不安は的中します。

ゴオーーーー

強烈な嵐が、遣唐使船団を襲います。

右に、左に、木の葉のように翻弄される船!

最澄と空海が遣唐使でたどったルート
最澄と空海が遣唐使でたどったルート

最澄 天台山に学ぶ

一か月にわたる漂流のすえ、
空海の乗った船は福州に打ち上げられます。

最澄の船はそれよりさらに二十日も漂流し、
明州(現浙江省寧波ニンポー)に打ち上げられます。

「さいわい、明州から天台山は近い。
私は、私のなすべきことをやるのみ」

こうして、最澄は天台山にたどり着きます。

「最澄殿。遠いところ、よく来られた。
私が天台山座主・道邃(どうずい)です。
ここでしっかり、法華経の教えを吸収されていくとよい」

「はい。よろしくお願いします」

天台宗は南北朝時代の僧・智顗(ちぎ)が開いた宗派で、
『法華経』の教えに重きを置きます。

その根本原理は「衆生救済」…
すなわち世の中すべての人を、救うことにありました。

一年間かけて、最澄は天台宗の教えを学びました。
また天台宗の教えだけでなく、
禅や大乗仏教の戒律、そして帰り道には密教も学びました。

最澄の帰還

805年、

最澄はたくさんの経典と密教の法具をたずさえて帰国します。

「帝も、さぞお喜びくださるだろう。早くご報告せねば…」

しかし、桓武天皇に拝謁した最澄は、
驚かされることになります。

「ごほっ、ごほっ…最澄か、
よく…無事で戻ってきてくれた」

「ははっ…帝、もしかしてお体が?」

「もうずいぶん悪い。早良親王の怨霊が、まだ余を
許してくれぬのだ。だが最澄、お前が戻ったからには安心じゃ。
さあ、法力によって、怨霊を祓ってくれ」

「ははっ…」

桓武天皇はすっかり衰弱し、怨霊におびえていました。

法力で怨霊を払ってくれと言われても…

最澄は内心、それは違うと、違和感を覚えるのでした。

(私が学んできたのは広く人々を救うための教えだ。
法力で怨霊を祓うとかいうのは、
ちょっと主旨がずれているんだがなあ…)

最澄 天台宗を開く

翌806年、桓武天皇より天台宗として
正式な宗派を名乗ることを許されます。

といっても、最澄の天台宗は中国天台宗そのものではなく、
最澄が独自にアレンジを加えた
「日本天台宗」ともいうべきものでした。

それは、「円・戒・禅・密」を統合した
「四宗合一」という言葉であらわされます。

「円」は中国天台宗の教え全体。

「戒」は大乗仏教の戒律。

「禅」は中国に行く前から学んでいた禅の教え。

そして「密」は密教…言葉であらわせない秘密の教えのことです。
言葉…つまりお経に書かれた教えを「顕教(けんぎょう)」と言うのに対し、
言葉であらわせない教えを「密教」…本当はもっと複雑な話なのですが、
簡単に分類するとそうなります。

最澄の日本天台宗

このうち最初の「円」のみが中国天台宗で、
「円」「戒」「禅」「密」の四つを組み合わせたのが、
最澄のもたらした「日本天台宗」というわけです。

「さあ、天台宗を、この日本で、大いに盛んにするぞ」

張り切る最澄。一国の天子からのバックアップを受けて、
天台宗の未来はまことに輝かしく思えた、その矢先、

不幸が起こります。

桓武天皇 崩御

天台宗を開いた翌年の807年、
最澄びいきの桓武天皇が亡くなります。

最後まで弟・早良親王の怨霊におびえ、
衰弱しきった末の崩御でした。

それにしても…

桓武天皇という一人の帝王の、
怨霊に対するおびえが、平安京遷都という大事業をひきおこし、
以後1000年以上にわたる王城の地が築かれたのは
感慨深いものがあります。

さて、

桓武天皇が亡くなったことで、
これまで桓武天皇によって冷遇されてきた
奈良の南都六宗が勢いを盛り返します。

「天台宗だと?生意気な。仏教は奈良。
奈良の仏教こそが、正しいのだ」

そんな勢いで南都六宗が天台宗に議論をふっかけてきます。

中にも、

法相宗の僧・徳一(とくいち)が
最澄にしかけた「三一権実(さんいちごんじつ)論争」が
有名です。

「人間はだれでも等しく仏に至ることができる」

そう主張する最澄。

「人間には生まれつきの素質や才能があるから、
誰もが救われるわけではない」

そう主張する徳一。

まあ、こんなことをどんなに議論しても決着なんか
つきっこないんですが…
やっぱり決着はつきませんでした。

相手にしなければいいだけですが、最澄はいちいち議論し、
そのたびに敵を増やす結果となります。

一方、空海は…

次回「最澄と空海(三) 空海の帰還」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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