最澄と空海(一)最澄、比叡山へ

こんにちは。左大臣光永です。ついに入りましたね
ゴールデンウィークに!どこに行っても子供のカン高い声で
鼓膜が破けそうになりますが、このつんざく子供の声が
日本の活力なのだと無理やり自分を納得させたりもする昨今、
いかがお過ごしでしょうか?

さてゴールデンウィークで時間もあると思いますので、
本日はちょっとゴッテリしたネタを。ということで、
「最澄と空海」のお話をお届けします。


http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Saicyo1.mp3

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「天最・真空」なんて学校では習ったんじゃないでしょうか?

天台宗を開いた最澄と真言宗を開いた空海。

仏教界の二人の巨人。その経歴を調べていくと、実に人間くさく
おもしろいエピソードの宝庫です。寺めぐりをする時にも
最澄と空海の経歴についてのざっとした知識があると、
楽しさが増すはずです。

あ、その前に。

明日、東京多摩永山公民館で、わたくし左大臣光永の語る
「声に出して読む 伊勢物語」を開催いたします。
こちらも、お時間のございます方は、ぜひご来場ください。
http://www.tccweb.jp/tccweb2_028.htm

では、最澄と空海。どうぞ。

桓武天皇

平安京に都を遷した桓武天皇は、
仏教に対してきわめて厳しい姿勢でのぞみました。

「奈良の都では、政治と仏教が結びつきすぎていた。
僧侶の政治介入。そこで道鏡のような不届きものも、あらわれたのだ」
ここ平安京では、仏教と政治はきっぱり切り離すことにしよう。
僧侶は僧侶として、あくまで政治の外側から、
国家をささえてもらおう」

そこで桓武天皇は、新しい時代にふさわしい、
最新の仏教を学ばせるため、二人の新人を見出しました。

最澄 その出自

最澄は767年(神護景雲元年)、近江の国の生まれ。
俗姓を三津首(みつのおびと)といいました。

その先祖は中国後漢の孝献帝の血筋で、
応神天皇の時代に日本に亡命してきて近江志賀の地を賜り、
三津首の姓を名乗ったといいます。

12歳で出家し、19歳で東大寺で受戒して、
正式な僧となりました。

しかし、南都六宗とよばれる奈良の仏教は、
最澄を失望させるに十分でした。

南都六宗はあくまで学問的に仏教を研究することを
主体としており真剣に悟りを求めようというようなものでは、
ありませんでした。

また南都六宗はあくまで貴族のための仏教であり、
庶民のことは最初から念頭に置かれていませんでした。

さらに大寺院では国家の保護のもと、広大な荘園を領有し、
僧侶の中には、ぜいたくな暮らしをむさぼり、
学問をおろそかにする者もありました。

若き理想に燃える最澄には、いかにも許し難いことでした。

最澄 比叡山へ

「奈良の仏教は、腐敗しきっている!
こんなのは、私の求める仏教ではない」
決めたぞ。私は奈良を去り、
わが故郷、比叡山で修行をするのだ」

受戒後わずか三か月で、最澄は奈良を去って比叡山に庵を結び、隠遁生活に入ります。

時に延暦四年(785年)最澄19歳。

世間の無常にして栄衰の限り有るを観じ、
正法の陵遅(りょうち)し、蒼生(そうせい)の沈倫せることをナゲき、
心を弘誓(ぐせい)に遊ばしめ、
身を山林に遁(のがれ)んとして、その年七月中旬、
カイ【心+貴】ニョウ【門+市】の処を出離し、
寂静の地を尋ね求め、直ちに叡山に登って草庵を卜し居し居す

『叡山大師伝』

比叡山に庵を結んだ最澄は、日夜、山を上り下りし、
滝に打たれ、座禅し、修行に励みます。

「釈尊も29歳で王城を出て、苦行の末に悟りを開かれたのだ。
今こそ釈尊の心と行いを、なぞるべし。修行、座禅。修行、座禅…」

最澄は、比叡山に入るいきさつを記した願文の中で、
自らを、こう表現しています。

愚中極愚 狂中極狂 塵禿有情 底下最澄

愚中(ぐちゅう)の極愚(ごくぐ)、狂中(おうちゅう)の極狂(ごくおう)、
塵禿(じんとく)の有情(うじょう)、底下(ていげ)の最澄

愚か者の中でも最も愚かな、狂った中にも最も狂った、
髪はそっているが俗の塵にまみれている最低の最澄。

また別のところではこうも記しています。

解脱の味わい独り飲まず。安楽の果独り記せず

つまり、独りで悟りを得られればそれでいいというのでなく、
最澄はあくまで広く衆生を救う。
仏法のすばらしさを人々に届けることを使命としていました。

比叡山には先輩の修行者たちが多くいましたが、
彼らも最澄の熱心なさまを見て、心惹かれます。

「あんた、たいしたもんだなあ。よくそこまで熱心にできるもんだ」
「私もともに修行させてもらって、いいですか」
「どうぞどうぞ。食糧も衣類も、皆で分け合えばいいんですよ」

都から最澄の評判をききつけて若い修行僧も比叡山に登って来て、
最澄のまわりは賑やかになっていきました。

最澄は修行のかたわら、鑑真和尚がもたらした経典や書物のうち、
特に天台宗に関するものに心惹かれ、読み込みました。

「ううむ、天台宗の教えはすぐれていて曇りが無い。
奈良の仏教にかわるのは、天台宗をおいて他にない」

最澄の、その確信は年々強くなっていきました。

788年(延暦7年)にはそれまで暮らしていた庵のそばにもう一つの庵を建て、
これを「一乗止観院」とします。そして自ら薬師如来像を削って、
これを本尊としました。

後の延暦寺根本中堂です。

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏達
わが立つ杣に 冥加あらせたまへ

気宇壮大な歌を、最澄はこの時期に詠んでいます。

最澄 唐へ渡る

さて、最澄の学識豊かで修行熱心なことはついに、桓武天皇のお耳に届きます。

「なに…比叡山にはそんな優れた僧がいるのか」

桓武天皇は世俗化した奈良の仏教を嫌い、
新しい時代にふさわしい仏教を求めていました。

その目的に、最澄こそうってつけでした。
すぐに桓武天皇は最澄を召し出します。

「最澄よ、お前のその学識を以て、
本場の仏教を勉強してきてくれ」

「唐へ!…かしこまりました。なんという喜び!
必ず、多くのものを持ち帰ります」

804年(延暦年)最澄は、桓武天皇に抜擢されて、
還学生(げんがくしょう)として遣唐使に加わります。

還学生とはごく短期の滞在で帰還するもので、
そうとうな身分の者が任じられました。

「時は来た」

38歳の最澄は胸躍らせます。

最澄と空海が遣唐使でたどったルート
最澄と空海が遣唐使でたどったルート

遣唐使について

遣唐使は「四つの舟」とよばれ四艘の舟に分かれて
百数十人~五百人程度がのりこみましたが、航海は命がけでした。

造船技術も航海技術もお粗末なもので、
嵐でも襲ってきたら、目も当てられませんでした。
四艘がそろって目的地につくほうが稀でした。

だから遣唐使になることは表向き名誉なことでしたが、
誰もが嫌がりました。

最澄・空海が加わった第14次遣唐使の遣唐大使は
藤原葛野麻呂(かどのまろ)ですが、
葛野麻呂は皇太子安殿親王の寵愛する薬子と
不倫の関係となっており、
それが発覚したために遣唐使に任じられたようです。

時代は下りますが、
百人一首で有名な小野篁の例もあります。
小野篁は何度も遣唐使になることを拒んだために
ついに嵯峨上皇より島流しにされたのでした。

つまり、遣唐使は罰ゲーム並に、誰もがやりたくないことでした。

さてこの遣唐使団には、最澄より7歳年下の空海も、
留学生(るがくしょう)として加わっていました。

留学生とは20年にわたる長期滞在が義務づけられ、
まだ若い身分の低い者から選ばれました。
滞在中の費用も官費からは賄われず、自腹でした。

空海 その出自

空海は774年四国讃岐の生まれ。

15歳で官僚になるべく都に出て
18歳で官僚養成学校である大学に合格。

官僚になるべく儒学をまなんでいましたが、
しだいに儒学よりも仏教に心惹かれていきます。

なんだ、せせこましい儒学なんかより、
こっちのほうが面白いじゃないかと、
ついに大学を中退。

その後は山岳修行僧にまじって修行をつみました。
ある晩空海が岬を走り廻って烈しい修行をしていると、

カーーッ!

目の前に明るい星のようなものがあらわれ、
ぐおっ、…な、なんだこの光は…!う、
うわーーーっ…そんな神秘体験も、あったのです。

もしかしたら空海は、UFOを目撃していたのかもしれませんね。

804年(延暦23年)空海は正式な僧となり、
どういういきさつかわかりませんが、遣唐使として抜擢されます。

空海がどういういきさつで遣唐使になれたのかは、わかりませんが、とにかく、

最澄と空海。

後の仏教界の二人の巨人は同じ遣唐使団に組み込まれることとなります。

いよいよ本場中国で、天台宗や、密教の教えを学べる!
その期待に胸躍る最澄、空海でした。

最澄と空海が遣唐使でたどったルート
最澄と空海が遣唐使でたどったルート

次回「最澄と空海(二) 天台宗のはじまり」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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