最澄と空海(四) 決裂

こんにちは。左大臣光永です。子供の日ですね。
こいのぼりを見ていたら、ゆるやかに吹き流される者あり、
隣の奴にちょっかい出す者あり、紐にからまって座礁している者ありと、
さまざまにドラマがあるのは人間世界と変わらないなァと思いました。
このよき一日、いかがお過ごしだったでしょうか?

さて本日は「最澄と空海(四) 決裂」です。


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↓↓前回までのお話はこちらです↓↓
最澄と空海(一) 最澄、比叡山へ
最澄と空海(二) 天台宗のはじまり
最澄と空海(三) 空海の帰還

「空海殿、密教の修法について学ばせてください」
「私に…ですか?」

空海は困惑します。

名実ともに日本仏教界のトップに君臨する最澄が、
7歳年下で身分もずっと低い、
自分などに教えを求めてきた…へんな感じでした。

最澄 空海の弟子となる

しかし最澄は空海のもと、実に熱心に学びました。

空海から経典を借りて、ひたすら書き写し、
少しでも疑問点があると、納得するまで質問しました。
また空海は最澄から比叡山に招かれ、
密教の講義をしたりもしました。

812年(弘仁3年)、

最澄は、高雄山寺にて弟子の泰範(たいはん)・
円澄(えんちょう)とともに空海から灌頂(かんじょう)を受けます。

灌頂とは密教の師が弟子の頭に水を注ぎ、
弟子になったことを示す儀式です。

ひたひたひた…

最澄の頭に水を注ぐ空海。

この日、日本仏教界の頂点に立つ最澄が、
7歳年下で身分も低い空海の弟子となったことが、
天下に知らしめられたのです。しかも、
最澄自身がそれを望んだのでした。

(まったく…純粋すぎるお方ではある…)

天才肌の空海にとって最澄の愚直なまでの泥臭い純粋さは、
扱いづらいものだったでしょう。
最澄とどう接していいのか、
空海は困惑していたことでしょう。

伝法阿闍梨の灌頂

さらに最澄はこんなことを言い出します。

「空海殿、私に伝法阿闍梨の灌頂を受けさせてください」

「なんですと!」

伝法阿闍梨とは密教のあらゆる修法と知識を身に着けた、
信徒の規範となる立場の僧のことです。
これには空海も困ってしまいました。

「最澄殿、伝法阿闍梨の灌頂を、
そんな簡単に考えてもらっては困ります。
本気で受ける気があるのですか?」

「もちろんです」

「仕方がありませんね…。
ならば三年間、修行してください。
その後に灌頂を授けましょう」

「さ、三年!!そんなに長く、ですか」
「それくらい、伝法阿闍梨の灌頂とは重いことなんです」

「しかし私は……三年も比叡山を留守にするわけにはいきません」

「では、よしましょう」

「待ってください空海殿!…では、
かわりに弟子の泰範(たいはん)を預けますので、
泰範に、教えてやってください」

「弟子を……?」

やはり、わかっていない。

空海は思うのでした。

大事な密教の奥義を学ぶのに、弟子に代理させるなんて。
空海にいわせると、密教をナメているとしか思えない態度でした。

決裂

最澄が注釈書『理趣経釈(りしゅきょうしゃく)』の
借用を空海に申し入れた時、空海はこれをキッパリ断ります。

その時の空海のきわめてキツイ言葉が今に伝わっています。

文は是れ糟粕なり、文は是れ瓦礫なり。
糟粕瓦礫を愛すれば、粋実至実を失う。
真を棄てて偽を拾うは愚人の法なり。
愚人の法には汝随う可(べ)からず。求むべからず。

言葉は酒粕であり瓦礫である。

酒粕や瓦礫を愛すれば真実を失う。

つまり、言葉による学習に頼りすぎる最澄に、
強く空海は言っているのです。

言葉だけでは本質を見失いますよ。
そんな愚か者になりなさんな、と。

『理趣経釈』は経文『理趣経』の注釈書で、
密教の根本原理にかかわる重要な書です。

すでに最澄は『理趣経』を読んでいましたが、
そこには驚くべきことが書かれていました。

男女の性愛や、かなりエロチックな内容を取り上げて、
「それすらも、仏へ至る清い道だ」と説くのです。

最澄は衝撃を受けたことでしょう。

だからこそ、注釈書を読みたがったのです。
この経文は、何を語っているんだろうと。

一方、空海の考えでは、たしかに
『理趣経』を理解するには注釈書『理趣経釈』を
並行して読まなければならない。しかし、
両者は男女の性愛に関するかなり
大胆な内容を扱っているために、修行の浅い僧が読むと、
曲解して道をふみはずす可能性があると。

もちろん、最澄ほどの者であれば
『理趣経釈』を読んだからといって
色狂いになるなんてことは、万に一つもありえません。
その点では空海は最澄を信頼していたはずです。

しかし…

最澄が、あまりに言葉による学習に頼りすぎること。
注釈書を読むだけで密教の全てを
わかったつもりになっていること。
ここに、空海は危険を感じました。

「言葉に頼りすぎるな」

…そう書き送りながらも、
空海は誰よりも言葉による学びを重んじた人物です。

むしろ空海ほどの大・文章家のいうことだからこそ、
その指摘には重みが感じられます。

空海は誰よりも文字を重んじ、言葉を重んじ、
だからこそ言葉の限界も、言葉に頼りすぎることの危険も、
熟知していました。

最澄殿ほどの御仁が、なぜこんな簡単なことがわからないのですかと、
この文章には、空海のはがゆい思いがにじみ出ています。

しかし……

七歳年上の人生の先輩に対する言葉としては
あまりに乱暴で、礼を失したものであったことは否めません。

その後も最澄と空海の関係は、気まずくなる一方でした。

その原因の一つには、空海のもとで密教を学んでいた
弟子の泰範が、最澄のもとに戻らなくなったことがあります。

「泰範よ…戻って来てくれ…お前がいないと心細いのだ…
この老いぼれを、見捨てないでくれ…」

最澄は何度か熱のこもった手紙を泰範のもとに
書き送っています。それは師が弟子に送る手紙としては
艶っぽすぎる文面で、ここから、二人は
男色関係にあったという説も、出てきます。

しかし、泰範は、ついに最澄を見限り、
空海の弟子になってしまいました。

最愛の弟子を奪われた最澄の屈辱は
そうとうなものだったことでしょう。

しかし、屈辱はこれだけで終わりません。

泰範は最澄に絶縁状を送ってきました。
その代筆をつとめたのは、なんと空海でした。その状にいわく、

泰範、いまだ六浄除蓋の位に逮(およ)ばざれば、
誰かよく出仮利物の行に堪へん。

私泰範は、まだ六根…目・耳・鼻・舌・意識が
清められていないので、外に出て他者を救うことはできません。

「がはっ…!!」

さすがの最澄も、これには絶句したことでしょう。

実は、この文章は最澄が二十歳で奈良の仏教を捨て
比叡山にこもった時あらわした『願文』からの、
そのままの引用でした。

つまり空海は、若い頃の最澄自身の言葉を使って、
弟子の絶縁状として、この一文を最澄にたたきつけたのでした。

「お前がかつて南都六宗を見限ったように、
泰範は天台宗を見限ったのだ」

…そう、言っているようにも取れます。

空海の真意はわかりませんが、
底意地の悪い感じはぬぐえません。

最澄と空海はなぜ決裂したのか?

最澄と空海がここまで決裂した原因は、何なのか?

●経典の貸出を空海が断ったこと。
●最澄の弟子泰範が最澄のもとを去ったこと。

一般にこのふたつが理由として挙げられます。
しかし、それは表面上のことで、
本質は二人の密教に対する考え方の違いにありました。

最澄は『法華経』を中心に、
中国天台宗に密教、禅、大乗戒を組み合わせ、
総合的な仏教を築こうとしていました。

最澄にとって密教はあくまで、
一つの部品でしかなかったといえます。
だから、最澄は密教を言葉だけで
手早く学習したいと思っていました。

対して空海は、密教こそが最上の教えであり、
『法華経』も、釈迦の存在すらも!密教の前では小さい。
そして密教は言葉だけで学習できるものではなく、
師匠から弟子への直接伝授によってのみ
伝えられると考えていたところに両者の食い違いがありました。

しかし…二人の決裂の原因はそういう教理的な問題だけでなく…、
なにか二人の性格の奥深くに根差した、
粘液レベルの気質の違いから来る隔絶が、どうしても相容れないものが、
あったように私は思います。

その後も最澄のもとから多くの弟子が去っていきます。

比叡山の過酷な環境に耐えきれず、
もういい加減にしてください、つきあいきれませんと、
半数の弟子が去って行ったと伝えられます。

最澄の入寂

「私の理想は…間違っていたのか…
いや、そんなことは無い。衆生救済。衆生救済。
私が生涯求めた大乗仏教の根本原理は、そこにある。
自分一人の屈辱など、衆生救済の前には小さいことだ」

822年(弘仁13年)最澄は比叡山の中道院でひっそりと息を引き取ります。

享年56。

「心形久しく労して一生ここに窮まる」

そうつぶやいた後、そばにつきそう僧に向かって、

「我が為に仏を作る勿れ。我が為に経を写す勿れ。我が志を述べよ」

そう言ったと伝えられます。

最澄の理想は、孫弟子の円仁・円珍に引き継がれていきます。

その後の空海

最澄が没した翌年の823年(弘仁14年)。

嵯峨天皇より空海に京都の教王護国寺(東寺)が
与えられます。以後、東寺は
真言宗の根本道場として栄えていきます。

838年(天長5年)、空海は東寺の東に
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という庶民のための学校を作り、
庶民に広く学問を教えました。教える内容は仏教だけでなく
儒教や芸術まで、広きに及びました。

綜は「綜号的な」、「芸」は「学問・芸術」、
「種智」は大日如来の絶対智のことで、
あらゆる学問・芸術を総合的に教える全人教育を理想としていました。

空海の生涯について、より詳しい話は、
また別の機会にお届けします。

最後に、

新製品の告知です。

「聴いて・わかる。日本の歴史~平安京と藤原氏の繁栄」
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長岡京遷都から摂関政治の全盛期まで約220年間を語ります。

奈良の都を後にした桓武天皇は
長岡京に、ついで平安京に遷都。都の造営をおし進めます。

東北では
30年以上にわたる蝦夷との戦争が続き
族長アテルイの知略に将軍坂上田村麻呂が翻弄されていました。

最澄と空海は中国から新時代にふさわしい最新の仏教をもたらし、
嵯峨天皇は天皇親政により天皇家の地位を高めます。

藤原氏は、

応天門の変・承和の変などの事件を通し、
敵対勢力を次々と排除。

藤原良房は人臣初の摂政に就任。
その養子・基経は史上初の関白に就任。

これら良房・基経二代において、
やがて訪れる摂関家全盛期のいしずえが築きます。

菅原道真は宇多天皇に重く用いられますが、やがて
藤原氏と対立し、無実の罪を得て大宰府に流されます。

東風吹かばにほひ起こせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ

平将門の乱。藤原純友の乱。

関東と瀬戸内海で勃発した武士による反乱は、
やがて来る武士の時代のさきがけとなる一方、

「寛和の変」によって一条天皇を即位させた
藤原氏は、いよいよその勢いを増し、藤原兼家、
その子藤原道長の代に至り、その勢いは頂点に達します。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも 無しと思へば

藤原氏の豊かな財力のもと、都では絢爛豪華な文化が花開き、
清少納言、紫式部、和泉式部といった
女流文学者たちがあらわれました。

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは
少しあかりて紫だちたる雲の細くたなびきたる…

一方で庶民は貧しい暮らしにあえぎ、
九州では、壱岐・対馬の住人が謎の軍事集団に
虐殺されという事件が起こっていました。

これに対して朝廷は何ら手を打たず、
藤原氏による摂関政治の腐敗ぶりを
露呈していました。

…こうした、盛りだくさんの内容で語っています。

各話題ごとに短く話を区切り、わかりやすく語っていますので、
教科書で昔習ったあの事件、あの出来事。バラバラだった知識が
スーーッと一本の線でつながります。

「聴いて・わかる。日本の歴史~平安京と藤原氏の繁栄」
近日発売します。
http://sirdaizine.com/CD/HeianInfo.html

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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