奥州藤原氏(四) 三代秀衡(一)

こんにちは。左大臣光永です。

今日、東京駅から山手線内回りに乗ったら、ガラガラでビックリしました。一車両に6人しか乗ってませんでした。山手線てこんな空くことがあるんだと、新鮮な気持ちでした。貸し切りに気分でのびのびと上野まで揺られてきました。

さて

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というわけで、松尾芭蕉『おくのほそ道』に関連して、奥州藤原氏の話をお届けします。芭蕉が平泉中尊寺でしみじみと涙を流している、奥州藤原氏、清衡・基衡・秀衡の「三代の栄耀」についての、お話です。

本日は第四回「三代秀衡(一)」です。

基衡から秀衡へ

保元2年(1157年)亡くなった基衡の跡を継いで秀衡が奥州藤原氏三代当主となります。生年不明なのでこの年何歳かわかりませんが。昭和25年に秀衡のミイラが検分された時、立ち会った大仏次郎氏は、その印象をこう語ります。

…胸部は、一層見事に武人の胸にふさわしく、強い張りを示して、たくましく盛り上がっていた。木彫の仁王像の胸が感ぜられる。肩もしっかりして円味を帯びている。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立ちと称してはばからない。

さすが作家さんは言葉が豊かですね。私が言うと「ガッシリしてる」とか「ドッシリしてる 」で終わりです。語彙力の差というものを見せつけられました。

秀衡が当主となった1157年という年は、保元の乱の翌年。平治の乱の2年前です。世の中が騒然としています。長きにわたった貴族を押して武士が力をのばし、世の中が大きく動きつつあると、だれもが感じていました。その騒然とした空気は、はるか東の平泉にも伝わっていました。

三代当主たる秀衡の課題は、実質上認められていた奥州藤原氏の奥羽における権力を、公的にも認めさせることでした。つまり、官位です。祖父清衡も父基衡も、「押領使」という低い役職を朝廷から与えられたのみで、清原氏がかつて得ていた「鎮守府将軍」には遠く及ばないものでした。公式文書には痛々しくも「散位(位が無い)」と記されていました。

「私の代で、なんとしても奥州を認めさせる」

それは秀衡自身の願いであるとともに、80年3代にわたる、奥州藤原氏全体の悲願でもありました。

鎮守府将軍となる

嘉応2年(1170年)秀衡は従五位下鎮守府将軍に任じられます。これが藤原秀衡が史料に姿をあらわす最初の記録です。

鎮守府将軍といえば前九年合戦(1151-1162)で清原氏が、源頼義に協力して勝利に導いた功績により、任じられたものです。しかし奥州藤原氏は、清衡、基衡と鎮守府将軍就任をのぞみながら、ついに果たせなかった地位でした。奥州藤原氏は奥州の支配をあくまで「黙認」されているという形でした。だから彼らは喉から手が出るほど、官位を、朝廷のお墨付きを欲したのです!三代秀衡に至り、いよいよ、その願いを果たすことができたわけです。

なぜ、この時期になって秀衡の鎮守府将軍就任が認められたのか?一説には、ある人物の口聞きがあったようです。平清盛です。

なぜ平清盛は藤原秀衡に味方したのか?

平家は日宋貿易により利益を上げており、大量の金を奥州から都合してもらっていました。その見返りとして、清盛は秀衡に便宜をはかったのです。

陸奥守となる

さらに10年後の治承4年(1180年)、秀衡は陸奥守に任じられますが、これも平清盛のおかげでした。

この年、後白河法皇第三皇子以仁王が打倒平家の令旨を出し、全国の源氏が立ち上がります。伊豆の源頼朝、信濃の木曽義仲など次々と挙兵するたいへんな時期に、一門の支え平清盛は熱病に犯され、帰らぬ人となりました。

清盛の跡をついだ宗盛は、清盛よりはるかに凡庸で誇りに欠けた人物でした。なんとかこの事態を解決しようと焦ります。

「各地で源氏が蜂起し、どうにもならない状況です」 武士
「せめて東国の源氏の牽制だけでも、藤原秀衡殿にやってもらおう」 宗盛
「おお、それはよい。奥州藤原氏と源氏は、後三年合戦以来の
長い確執がある。平家と利害は一致しておる」 時忠
「しかし、ただではやらないでしょう」 経正
「ならば、向こうが一番ほしがっているものをくれてやれ」 宗盛

こうして、平家一門の口ききにより、藤原秀衡は陸奥守に任じられます。しかし、貴族たちは激しく反発しました。

「陸奥守といえば地方行政府の最高官。
それに、賤しき俘囚の長を、すえるなど!
ああ、奥州はもう終わりました。世が乱れるもとです!」 九条兼実

「乱世の基」九条兼実は日記「玉葉」に、そう書いています。九条兼実は極端な保守派なのでこう言うのは当然なんですが、九条兼実ならずとも、都の多くの貴族たちにとって、東北に対する感情はそのようなものでした。

しかし、平家は柔軟でした。

「どうせ奥州藤原氏は現実に陸奥を支配しているのだ。いまさら陸奥守の位を与えようと、与えまいと現状はかわらない。ならばここは恩を売り、源氏へのけん制役になってもらおう」

そう考えたのです。

同時期に、常陸の佐竹氏が常陸守に、越後の城氏が越後守に任じられたのも、同じ事情によります。

「たしかに…お受けいたしました」

つつしんで陸奥守を拝命する藤原秀衡。

時に養和元年(1181年)8月。

秀衡動かず

「これで秀衡は平家の味方だ。源氏恐るるに足らず」

平家一門の期待が高まります。しかし…秀衡には秀衡の考えがありました。

(源平の争いに巻き込まれるのは愚かだ。
今までさんざん蝦夷だイテキだとバカにしておいて、
困ったから助けてくれとは。そんな義理は無い)

それでいて秀衡は、いかにも平家に味方して挙兵するようなそぶりを何度も見せ、そのたびに源平両方を一喜一憂させます。また、源氏の遺児義経をかくまったりもしました。

一方、平家と敵対する頼朝にとって、奥州藤原氏は脅威でした。西国で平家と戦っている最中に背後をつかれたら、一たまりもないです。そこで頼朝は寿永元年(1182年)鎌倉の江の島に、弁財天を勧請し、藤原秀衡に呪いをかけました。今日、観光地として知られる江の島弁財天です(『吾妻鏡』による)。

このように、藤原秀衡の存在は平家・源氏双方に動揺を与えました。

しかし秀衡は、治承・寿永の内乱を通して、ついに一歩も平泉を離れませんでした。むしろその無言の圧力が、源平双方をやきもきさせる政治的な意味を持っていました。

「源氏も平家も、勝手に争っていろ。
奥州を戦火のちまたにして、なるものか…」

それが、秀衡の一番の考えでした。

無量光院の建立

その間、秀衡は祖父清衡の中尊寺・父基衡の毛越寺(もうつうじ)にならい無量光院を、すまいである伽羅御所(きゃらのごしょ)の後方に建立しました。丈六の阿弥陀仏を本尊とし、その荘厳さは宇治の平等院を模していたといいます。復元図を見ると、なるほど平等院そのものですが、現存せず、わずかに跡地が残るだけです。

奥州藤原氏 おぼえ方

奥州藤原氏のおぼえ方です。

キモヒヤス。

キ  清衡
モ  基衡
ヒ  秀衡
ヤス 康衡

キモヒヤス。
奥州藤原氏四代。
と覚えてください。

明日は「三代 秀衡(二)」です。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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