奥州藤原氏(二) 初代清衡(二)

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さて。

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というわけで、松尾芭蕉『おくのほそ道』に関連して、四回にわたって奥州藤原氏の話をお届けします。芭蕉が平泉中尊寺でしみじみと涙を流している、奥州藤原氏、清衡・基衡・秀衡の「三代の栄耀」についての、お話です。

本日は第二回「初代清衡(二)」です。

前回「初代清衡(一)」とあわせてお聴きください。

後三年の合戦 続き

応徳3年(1086)陸奥守源義家のもとに、清原清衡が助けを求めてきます。同族の清原清衡に館を襲撃され、女子供まで殺されたのです。

「女子供まで殺すとは許しがたい!これより八幡太郎義家は、清原清衡殿にお味方いたす!」

こうして、源義家・清原清衡連合軍と、清原家衡の間で戦いとなりました。

後三年合戦 第二段階
後三年合戦 第二段階

「なに!義家と清衡が組んだ?ぐぬぬ清衡め!だが、負けられぬ」

清原家衡は出羽の沼柵に立てこもります。

「攻め落とせ!」

義家軍はこれを攻撃しますが、籠城戦を続けているうちに季節は冬となり、強烈な寒さと飢が襲ってきます。義家軍は撤退を余儀なくされました。

「いや、よくやった!あの八幡太郎義家を撤退させるとは愉快!」

家衡の叔父の武衡は、話をきいてかけつけました。俺にも味方させろと。

「叔父上が来てくれると力強いです」
「だが、この沼柵では心もとない。より守りの固い、金沢柵(かねざわのさく)にうつるのだ」
「叔父上にお任せします」

こうして、家衡・武衡軍は金沢柵に移り、義家軍を迎え撃つ構えを取ります。

翌寛治元年(1087年)義家・清衡連合軍は家衡・武衡のたてこもる金沢柵に攻撃をしかけます。

後三年合戦 第三段階
後三年合戦 第三段階

「今度は昨年のようにはいかないぞ!!」

義家軍は大部隊をもって金沢柵を包囲し、兵糧攻めを行いました。

「もはや金沢柵は守りきれません」
「仕方ない…女子供だけでも逃がそう」

そこで柵内の女・子供が出てきた所、義家は、

「射殺せ!」

ひゅんひゅんひゅん

どすっ、どすっ

きゃあーーーー、きゃーーーー

容赦なく射殺し、逃げる女子供を追いかけて、斬り殺しました。

それはもう戦ではなく一方的な虐殺でした。

「ひいい…女子供まで射殺すとは、八幡太郎は恐ろしや…」

柵内は縮み上がってしまい、以後、誰も出てこなくなりました。ついに食べ物も飲み物も尽きて、降伏しました。

こうして源義家・清原清衡は勝利者となりました。しかし、義家は今回の戦いは私事であるとみなされ、清原氏追討の官符(命令書)を院から下してもらえませんでした。

「これは義家のわたくし事ではないか。勝手に騒ぎを大きくしたその罪、許し難いものがある」

よって清原氏追討の官符は下さない。恩賞も出さないというのが院の公式見解でした。事実、今回の戦いは義家の私利私欲から出ていました。もともとは清原氏の内紛に、自分のほうに利益があるかもと、わざわざ義家が首をつっこんでいったものです。

しかしそれ以上に、白河上皇は義家の勢力がこれ以上強くなることを恐れていたのでした。

院としては源氏にせよ、平氏にせよ、武士が力をもって、いずれ朝廷や院をもしのぐほどの勢いになることが、もっとも恐ろしいことでした。そのため、長年にわたって源氏がのびれば平氏に討たせ、平氏がのびれば源氏に討たせ、うまくバランスを取ってきたわけです。

このような院の思惑により、清原氏追討の官符は下されず、恩賞も出ませんでした。結局、後三年合戦は義家の私の戦いということにされてしまいました。

「これでは…命を落とした者たちは、犬死ではないか…」

ガックリと膝をつく義家。おやかたさま、あのう、俺たち戦った恩賞は。院から返事が届いた。今回の戦いは私の戦いとみなされ、恩賞は、無い。えっ、ええっ、そんなおやかたさま。じゃあ、あっしらは。心配するな。お前たちへの恩賞は、私から行う。

義家は私財をなげうって武士たちに与えました。おおーーさすが源氏の棟梁だ。太っ腹だ!もうこんなものいらないや。ゴロン、ゴロン、皆は持っていた邪魔なものを、田んぼのあぜ道に投げ捨てていきます。何だかわかりますか?そうです。敵将の首です。だからこの時、そこらの道端に、首が山と積まれました。

さらに義家は陸奥守を解任され都に戻されます。

義家は合戦の間、政府や寺社に税として収めるべき物資や米を軍備にあて戦後は郎党たちへの恩賞にあてました。そのため政府に莫大な負債を作ってしまいました。

上洛後、義家はそのことを追及され、以後10年ほど新しい官職も得られず「前陸奥守」のままでした。

つまり、後三年合戦は義家個人について見ると完全な失敗でした。

何ら得るものはありませんでした。

しかし私財をなげうって恩賞を行った剛毅さは語り草となり、関東で源氏の結束を強めることとなります。これより100年ほど後、源頼朝が登場する下地を整えることとなりました。

奥州藤原氏のはじまり

一方、清原清衡は、家衡・武衡の領土を受け継ぎ、奥州に広大な領土を所有する支配者となりました。

清原氏
清原氏

合戦終結後四年目の寛治5年(1091年)。

36歳の清衡は時の関白・藤原師実に奥州産の馬と多くの宝物を送りました。その際、もとの父親の姓に戻し「藤原清衡」と名乗りました。

摂関家から、正式に藤原氏の一員として認めてもらい、陸奥・出羽両国の支配を公認してもらおうとしたのです。

「ほうほう、これは、また…」

この頃摂関家は院政を行う白河上皇に押されて、勢いをそがれていた所でした。巻き返しのため、各地に荘園を立てていました。そんな中、藤原の一員である清衡が、引き出物を贈ってきたのです。本音を言うと、飛びつきたいところでした。

「しかし…相手は藤原といっても、しょせん
賤しき俘囚の子孫ではないか!
摂関家が、宝物に引かれて飛びついたとあっては
面子が立たぬ」

そんなこだわりもあり、清衡に与えられた官位は、低いものに留まりました。

陸奥国の押領使(治安担当官)。
権大夫(ごんのだいぶ。国守代理)。

位は正六位上(しょうろくいのじょう)。

「これだけか…」

清衡は都の貴族たちの、奥州に対する蔑視を実感したことでしょう。

しかし、摂関家に便宜を図ったことは、後々有利に働きます。

源義家にかわって陸奥守として赴任してきた藤原基家が、清衡を訴えました。

「清衡は合戦を企てています。油断できません」

すぐに朝廷では対策が話し合われます。

「さて、どうしたものでしょうか」
「ううむ。何かの間違いではないのかね」

こうして、清衡の取り調べはうやむやとなりました。摂関家への利益供与が、効を奏していたのです。

「摂関家へのつながりは作れた。さて、
いよいよ…新しい都を作るとしよう」

「は?都を…いったいどこにでございますか?」

「衣川の南じゃ」

「はっ…しかし、安倍氏も、清原氏も、あのアテルイですら
衣川の南に踏み入ることはできなかったのですぞ」

「だからやるのだ。わしが」

康和年間(1099-1103)ごろ、清衡はそれまでの拠点江刺郡(えさしぐん)豊田館(とよだのたて)を出て、安倍氏の旧跡衣川に近い平泉を拠点と定めます。

白河関(福島県)から外浜(そとがはま)まで二十日ほどの行程を、一町ごとに笠卒塔婆(笠のある卒塔婆)を立て、その正面に金色の阿弥陀像を描いた。国の中心をはかって、そこに一基の塔を立てた」とあります。(『吾妻鏡』文治5年九月十七日条)

中尊寺の建立

清衡が平泉にうつって2、3年後の長治2年(1105年)、ある寺院の建造が始まりました。まず最初の大型建造物「最初院」が完成したのを皮切りに、金色堂の完成を経て、大治元年(1126年)寺全体の落慶供養式典が行われました。

「20年…よくやった…」

清衡も、思わずつぶやいたことでしょう。これで、前九年合戦、後三年合戦で命を落とした人々を、敵も味方も問わず、その霊を慰めることが、できると。清衡は60代になっていました。

この寺の名を…言うまでもありませんね。そうです。中尊寺です。

中にも、9メートルの大仏を安置した大長寿院は、二階大堂(にかいおおどう)と呼ばれ、後に奥州合戦で平泉に攻め込んだ源頼朝は、そのあまりの美しさに心打たれ、後に鎌倉にこれに似せた永福寺の堂を建立したと言われています。

清衡の最期

大治3年(1128年)7月13日。

清衡は波乱に満ちた生涯を終えました。享年73。

光堂の完成から四年目のことでした。

昭和25年、ミイラ化した清衡の遺体のレントゲン検査が行われました。その結果、脳出血から左半身不随になっていた可能性が高いとわかりました。

戦乱で多くの死を目のあたりにし、自らの死が近いことも悟った晩年の清衡は、仏教に没頭していきました。黄金に輝く光堂を建立したのも、釈迦のように、まばゆい光の中で成仏したいという願いがあったためと思われます。

奥州藤原氏 おぼえ方

奥州藤原氏のおぼえ方です。

キモヒヤス。

キ  清衡
モ  基衡
ヒ  秀衡
ヤス 康衡

キモヒヤス。
奥州藤原氏四代。
と覚えてください。

明日は「二代 基衡」です。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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