平家の日宋貿易

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父忠盛の日宋貿易

平家の宋との貿易は清盛の父・忠盛の時代にさかのぼります。「すが目の忠盛」として
『平家物語』冒頭に登場する忠盛です。すが目…目が斜視だったということです。

忠盛は頭がキれました。商売の才能がありました。忠盛は越前守だった時代に、福井の敦賀港に出入りする宋や高麗の船を見ます。おいっせおいっせと海岸で物資を運びこんでる。

忠盛はそれを見て考えます。ほお、これは儲かりそうだ。ひとつワシもやってやろう。

894年に菅原道真の進言で遣唐使が廃止されて以来、日本国家としての中国との交易は行われていませんでした。しかし、大宰府、平戸、敦賀などを拠点に、私貿易は続いていたのです。

博多 大宰府 鴻臚館

博多の海岸に、水平線のかなたにじわーっと船の姿が見えてきます。

「船が来たぞー船が来たぞー!!」

博多や大宰府の鴻臚館という建物で、宋や高麗から来た商人を接待しました。鴻臚館の中庭に、ずらーーと品物を並べて、今でいうフリーマーケットみたいな感じだったかもしれません。

「お、こりゃいい硯ですな」
「アリガトウネ日本のお方。
その腰の刀とだったら交換するヨ」
「え、これはちょっと。
こっちの扇子とならどうです」
「そんなのはダメネ」

とかいって、取引をしてるとこに、えらそーに役人が乗り込んでくるんですね。

「こらお前たち!まずはお上の取引が先じゃ。
そのあとで残ったものを宋人と取引せよ」

商売のおいしい部分はお上が持っていっちゃうわけです。

「これでは儲からん。大宰府を通さず、
直接取引せねばならぬ…」

肥前神崎荘

そこで忠盛は、宋人と直接取引することにしました。

有明海に面した肥前神崎荘の管理を鳥羽上皇よりまかされていた忠盛は、この肥前神崎荘を拠点として貿易を行ないます。佐賀県の神崎は現在では内陸部ですが、当時は有明海が入り込んでおり、船をつけることができました。

しかも大宰府の役人を締め出すため、鳥羽上皇の院宣をねつ造したという話が残っています。忠盛が宋人と取引しているところへ、またドカドカと役人が乗り込んでくる。

「こらお前たち!まずはお上の取引が先じゃ。
そのあとで残ったものを宋人と取引せよ」

そこで忠盛、バサッと書状を見せて、

「何ですか?こちらは上皇さまの院宣をいただいているのですが。
何か文句でもございますかな。あれば院に直接
問いただしていただこう」

「う…うう…」

こうしてお上の介入を避け、貿易の利益を独占します。

陶磁器や仏教の経典、宋銭を輸入する一方、銀や水銀、日本刀などを輸出し、忠盛は富を築いていきました。また鳥羽上皇にめずらしい輸入品を献上して、朝廷での立場もよくしていきました。

大輪田泊と経の島

父忠盛が築いたこういう地盤を、清盛は受けつぎました。しかも父忠盛が都から遠い九州でやっていた貿易を、清盛は都に近い瀬戸内海を舞台に、大々的に行ないました。

そのためには大宰府から瀬戸内海まで船をひっぱってこないといけません。そこで神戸の大輪田泊を修築し、船が入りやすくしました。

大輪田泊は奈良時代に僧・行基が作った港です。それを清盛が貿易をするために修築しました。

この工事をめぐって、いろいろな伝説が生まれました。

大輪田泊は六甲山から吹きさらす風のせいで、波がザブザブ荒かったのです。よし、防波堤を作って、波を鎮めようということで、港の正面に、人口の島をつくることになりました。

ダンプもショベルカーも無い時代です。たくさんの人夫が、土砂をカゴに積んで、かついで、ドサドサーと地道に埋め立てていったんでしょうね。

ところが工事がうまくいきません。いいところでドザーと土砂が海水に流されます。工事を仕切ったのは阿波民部重能という四国の豪族です。

後に壇ノ浦で平家を裏切る人物です。うーむ、これは竜神さまがお怒りなのじゃ。よし
人柱を立てて竜神さまのお怒りをしずめよう。誰かわれこそはという者はおらんかーッ!

なんだ誰もおらんのか。工事の成功のためだぞ。生き埋めなんてのは誰だってイヤです。
冗談じゃねえぞってかんじです。

そうか誰も名乗り出ないなら仕方ないな。どっかから子供でもさらってこよう、乱暴なことを言い出しました。

そこへ清盛が、こらこら何を話している。何?人柱。ばかもの。そんな野蛮な話があるか。
工事の安全?迷信もたいがいにせよ。それだったら工事に使う石を貸してみろ。

サラサラ…

こう石にお経を書いて、どぼん、海にしずめる。これでいいんだ。じゅうぶんだ。人柱?バカな。罪作りなことだぞ。おまえたち、命というものは大切なものだ。

…こうして清盛は、人柱をやめさせたという話が『平家物語』に描かれています。

「お経を書いた石を沈めた」ということで「経の島」という島の名前になりました。

『平家物語』は、基本的に清盛については悪口ばかり書いてあるんですが、この経の島については、めずらしく清盛をほめています。

「今の世にいたるまで、上下往来の船のわずらひなきこそ目出けれ」

清盛の国際感覚

清盛ははるかに海の向こうを見据える国際感覚がありました。そして後白河上皇も、好奇心旺盛で型破りな君主でした。

ある時清盛は福原の別荘に後白河法皇をまねき、宋人とひきあわせます。

オーあなた日本の国王?ずいぶん頭サッパリねーなんて言ったかわかりませんが、それまで中国人なんて見る機会が無かった、新しもの好きの後白河法皇ですから、さぞかし興味深く話したと思います。

しかし、当時は外国人はケガレだ、まして皇族が外国人に会うなんてゆるされないという風潮がありました。九条兼実という貴族は、清盛が後白河法皇を宋人にひきあわせたことについて「天魔の所為」と書いています。トンデモナイことだと。

そういう時代だったわけです。

宋銭

輸入品の中で特筆すべきは宋銭です。貨幣です。

なんで貨幣なんて輸入したのか?日本には貨幣はなかったのか?

もちろん日本にも貨幣はありました。富本銭、そして和同開珎。中学の歴史で必ず習うあの貨幣。それ以後も何度か日本製の貨幣はつくられましたが、物々交換がメインであり、広く流通するには至りませんでした。

それは貨幣の鋳造技術が幼稚で、簡単にニセモノを作れることにもよりました。

しかし清盛の時代はじょじょに商業がさかんになっており、いつまでも物々交換じゃ、たいがい不便だなあという感じでした。そこへ、清盛がドーンと大量の宋銭を輸入しました。

ああこりゃ便利だ!商売がやりやすい!というわけで貨幣経済が発達し、平家はその元締めとして、巨大な富をにぎることとなります。

太平御覧

また清盛は大百科事典「太平御覧」を輸入し、言仁親王(ときひとしんのう)…のちの安徳天皇を西八条の館に迎えたときに献上しました。

「太平御覧」は宋の第二代皇帝太宗が編纂させた大百科事典です。ぜんぶで1000巻あったといいます。1000巻です!スゴイですね。1巻がどれくらいの分量だったかにもよりますが、大変な話です。

しかもこのとき安徳天皇は1歳です。この「太平御覧」…宋朝は輸出を禁じていましたが、
清盛は1000巻のうち300巻ほどを手に入れ献上しました。かつて藤原道長が後朱雀天皇の皇太子時代に「文選(もんぜん)」という、詩や文章を集めた書物を
献上した故事にならったものでした。

国際感覚あふれる君主としての教養をつけてほしいというジジ心があったのでしょう。それにしても、1歳の孫に300巻の百科事典を贈る…なんともありがたいジジ心じゃないですか。安徳天皇がちゃんと読んだかどうかはわからないですが…。

つづき「殿下乗合事件

解説:左大臣光永

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