日蓮の生涯(一)遊学と立宗

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日蓮というと、念仏や禅・真言といった他の宗教を攻撃し、法華経のみが正しいといってガンガンに攻めた人。とにかく、激しく、攻撃的である。日本仏教の他の祖師の人々はいいけど、日蓮はちょっと、距離を置いてしまう、そんなイメージもあるかと思います。


鎌倉 妙本寺の日蓮像

一方で日蓮は女性や病人、弱い者にはとても優しく、人の悲しみをわが事のように熱い涙を流しました。日蓮自身、庶民の出身だけに庶民の痛み苦しみを実感として感じられたのかもしれません。


京都 本圀寺の日蓮像

激しさと優しさ。攻撃性と穏やかさ。日蓮のそうした二面性を反映してか、巷にある日蓮の銅像も、あるいは激しくガツガツした生命力にあふれ、あるいは繊細で穏やかな表情をたたえており、日蓮という人物の二面性、奥深さが銅像の上にもあらわれていて、面白いです。


京都 本圀寺の日蓮像

出生と遊学

日蓮は承久の乱の翌年、承久四年(1222)房総半島南部・安房の小湊に貧しい漁師の子として生まれました。後年、自らを「栴陀羅(せんだら)の子」と称しています。「栴陀羅」とはインドのカーストにおける不可触選民。最低の存在ということです。

ただし日蓮はこれを卑下しているのではなく、むしろ誇らしげに語っています。仏の道には身分の高さなどは関係ない。それを賤しい出身である日蓮自身が証明してやる、という勢いです。

幼少期の日蓮について具体的な記録は何もありません。ただ後年の記録によると、学問に熱心で、念仏をさかんに唱えていたということです。法然の専修念仏は地方にまで広く普及していました。

しかしいつからか、日蓮は念仏に疑問を抱き始めます。

「こんなこと、何になるんだ?もし念仏で人が救われるなら、世の中にあまりにも道理に合わないことが多すぎるじゃないか」

少年時代の日蓮が抱いた疑問は、大きく二つありました。一つは歴史について。一つは仏教について。

歴史に関する疑問とは、安徳天皇が、壇ノ浦で海に沈んだこと。後鳥羽上皇が承久の乱で北条義時によって島流しになったこと。アマテラスオオミカミの末裔たる、ありがたい皇室の人々に、どうしてこんな不幸がふりかかるのかという疑問です。

次に、仏教に関する疑問とは、釈迦は一人なのに、どうしてさまざまな宗派に分かれ、それぞれが違うことを言っているのか、ということです。

日蓮は、悩み抜きました。真実に対する探求心が、日蓮を学問の道に向かわせました。12歳の時、故郷小湊のそばの天台宗寺院・清澄寺に入ります。師・道善房のもと、薬王丸と名付けられ、天台宗の教学(天台本学思想)を学び、学問・思索にはげみます。薬王丸は勉強熱心でした。

「虚空蔵菩薩よ!我を日本一の智者になしたまえ」そう言って薬王丸は祈りました。虚空蔵菩薩は智慧を象徴する密教系の菩薩です。

薬王丸の中で、じょじょに今後の学問への方針が固まっていきます。

●一つの宗派に偏らず、広くさまざまな宗派を学ばなければならない
●学者や翻訳者の解説に頼るのでなく、直接、経典から学ばなければならない。

そうなると、片田舎の清澄寺ではぜんぜん足りません。

「外に出て、学ぼう」

薬王丸は、遊学を決意します。そこで道善房のもとで髪を下ろし、是聖房(ぜしょうぼう)蓮長(れんちょう)と名をあらためました。

延応元年(1239)頃、17歳の蓮長は鎌倉に出ました。鎌倉でどんなことを学んだかは定かではありませんが、当時鎌倉はさまざまな宗派が入り乱れていました。天台宗・真言宗・律宗・浄土宗・禅宗。

「ますます混乱する。何が正しいのだ…」

おそらく蓮長は鎌倉遊学中に法然の『選択本願念仏集』を読み、誰かについて浄土宗を学んだと思われます。また禅宗も学びました。当時はまだ蘭渓道隆が来日する前で、建長寺はできていません。それでも北条政子の築いた寿福寺があり、禅宗も鎌倉でじょじょに勢いを出してきていました。

蓮長が鎌倉に出た延応元年(1239)は、隠岐に流されていた後鳥羽上皇が失意のうちに亡くなりました。鎌倉にもやや遅れてその知らせが届きます。そして三年後の1242年には、承久の乱で東海道方面の司令官であった執権北条泰時が亡くなり、続いて同じく承久の乱で東海道を進んだ北条時房が亡くなります。

「これはまさか…後鳥羽院の怨霊が祟ったのか?」

子供の頃から承久の乱で三上皇が流されたことに感心を持っていた蓮長は、そんなことも考えたかもしれません。

鎌倉に4年間学び、蓮長は仁治3年(1242年)清澄寺に戻ります。そして『戒体即身成仏義』という論文を書きました。4年間の修行の集大成でした。その中で蓮長は浄土宗を批判します。法華経は難しいといって学ばない浄土宗は、邪宗だというのです。

21歳の時、比叡山に登ります。当時、比叡山は仏教の総合大学ともいえる所で、天台宗のみならずさまざまな宗派のことが学ばれていました。蓮長は叡山三塔の総学頭であった南勝坊俊範の下、天台宗の教学を学びます。

「これは勉強のしがいがある」

若い日蓮も期待に胸躍らせたことでしょう。

また比叡山を起点として、京都の寺寺、大津の園城寺、大阪の四天王寺、さらには高野山にまで足をのばし、さまざまに学びました。学ぶこと実に十年に及びます。

ついに一つの結論に至ります。さまざまな宗派があるが、法華経こそ正しい。釈迦の教えを正しく伝えるのは法華経以外に無い。法華経こそ正しい教え・正法(しょうぼう)である。そして法華経を世に広めるために、法華経のエッセンスをこめた、南無妙法蓮華経を唱える。それを、世の中に広めて行こうと、蓮長は決意を固めました。

建長五年(1253)32歳の日蓮は比叡山を去り、故郷の清澄寺に戻ってきます。

立宗

比叡山を拠点とした12年間の遊学を終えた蓮長は、故郷安房に帰還します。よく帰ってきた。立派になったなあ、よよよ…清澄寺の師・道善房や、兄弟子たちが蓮長を歓迎してくれます。

帰国の挨拶をすませると、蓮長はさっそく皆に遊学の成果を示すべく、説法をします。時は建長5年(1253年)4月28日、所は清澄寺の道善房の持仏堂の南面。ああどんな素晴らしい話が聞けるたろう。期待に胸おどらせる人々に、蓮長は語り始めます。

「法華経こそが正法。釈迦の教えを正しくあらわしたものです。念仏や禅は、間違っています。ただ南無妙法蓮華経と唱えなさい」

「な、なんだこれは!」

師の道善房は絶句します。清澄寺は天台宗といっても浄土宗の教えを取り入れ、念仏も積極的に行っていました。それを、キッパリと否定されたのです。

またこの時、聴衆の中にこの地の地頭である東条景信(とうじょうかげのぶ)の姿もありました。東条景信は熱心な念仏教徒でした。自分が信じているものを「邪法」と否定され、カーーッと頭に血がのぼります。ただで済むわけは、ありませんでした。すぐに東条景信は蓮長を襲撃すべく、人を集めます。

「お前、たいへんなことになったぞ。とにかく早く、逃げなさい」

師の道善房は、蓮長に浄顕・義浄の二名を付けて、間道から逃がします。逃げる先は、西条の花房村の青蓮房です。ここで蓮長はまた、やらかします。阿弥陀堂の会堂供養をするということで、ある者が蓮長に説法をお願いします。すると蓮長は「阿弥陀如来は西方の仏で、この娑婆世界とは何の関係もありません。阿弥陀如来をあがめていても救われません。ただ釈尊のみが正しいのです」もうメチャクチャになりました。「出ていけ」ここも追い出されます。

またこの頃、伝説が伝わっています。蓮長は清澄寺のそばの旭の森にこもって水行を行っていたが、ある朝山頂に登り、ぱあーーっと水平線の向うに上ってくる朝日をみやり、

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、…」

大声で十回唱えたというのです。

とにかく、既存の仏教に厳として「否」をつきつけたのです。以後、蓮長は生涯にわたって迫害を受けることになります。波乱の生涯の始まりです。それでも、自分は法華経を説くために選ばれたのだ。迫害はむしろ想定内だ。迫害されることこそ、法華経が正しいという何よりの証拠だと、蓮長は考えました。そして子供の頃からの疑問も解けました。安徳天皇が壇ノ浦で亡くなったのはなぜか。承久の乱で三人の上皇が執権の北条義時ごときに島流しにされたのはなぜか。そんなおかしなことが起こるのは、人々が間違った宗教をあがめ、正法たる法華経に目を向けないからだ。

「今こそ鎌倉に出て、正しい教えを広めるのだ!!」

蓮長は鎌倉に出発するにあたり、両親を改宗させます。お前、あまり強引なやり方はしないでくれよ。命を狙われたら、どうするんだい。そうだぞ。危険なことだ。父上、母上、迫害はもとより覚悟の上です。それでも釈尊の正しい教えを、世の中に広めなければならないのです…

最初は抵抗を感じていた両親も蓮長の熱意におされ、蓮長のもとで法華経信者となることを誓い、妙日・妙蓮と名乗りました。両親が、蓮長の生涯初めての弟子となったのです。そして両親の妙日・妙蓮から一文字ずつ取って、また太陽と、沼の中にあって凛と咲く蓮の花という意味もこめて、その名も「日蓮」とあらためました(名前の由来には諸説あり)。

次回「『立正安国論』」お楽しみに。

開催します

今週6/24(金)13時30分より、東京多摩永山公民館で、
私左大臣光永の語る「鎌倉と北条氏の興亡」第三回「日蓮と一遍」を開催します。
鎌倉新仏教の巨人・日蓮と一遍について、北条氏やモンゴル襲来とからめて
お話します。歴史の舞台となった場所は、具体的に写真つきで紹介しますので、
鎌倉散策のヒントともなるはずです。東京近郊の方はぜひご来場ください。
http://www.tccweb.jp/tccweb2_024.htm

解説:左大臣光永

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