「流れ公方」足利義稙(三)越中亡命
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こんにちは。左大臣光永です。
鳩が電線のとこにずらーっと並んで、いかにもウンチひっかけてやるぞという感じで待ち構えているのは、警戒しますねえ。過去、何度かひっかけられたことがありますから。おそらくハトとしては、ボンヤリした相手を狙ってるんでしょう。あっ、トロそうなのが来たぞ。ひっかけてやる。よっしゃ。決まった。見ねえあの間抜けな顔。とか言ってる。そう考えると負けないぞと、こっちも気合入れて通ります
さて本日は「流れ公方 足利義稙(三)」です。
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室町幕府十代将軍・足利義稙は一般にはあまり知られない人物です。教科書にもまず出てきません。しかしその生涯の波乱万丈なことは織田信長や豊臣秀吉よりもよほど勝っています。
越中 放生津幕府
前回からの続きです。
足利幕府10代将軍足利義稙は明応の政変(明応2年(1493))により、細川政元に退位させられました。替わって足利義澄が11代将軍に就任。前将軍足利義稙は上原元秀の館に幽閉されますが、明応2年(1493)6月、足利義稙は夜陰にまぎれて上原元秀の館を脱出。忽然と姿を消しました。
「いったいどこへ行ってしまったのだ!
洛中洛外、くまなく探せ!!」
細川政元は激怒して、足利義稙のゆくえをさがさせますが、その行方はようとして知れませんでした。
足利義稙が向かった先は、越中でした。
越中は、かつて足利義稙に協力して最終的には自殺した畠山政長の本拠地であり、この地には畠山政長の重臣であった神保長誠(じんぼながのぶ)がいました。
足利義稙はこの神保長誠を頼んで、越中放生津に入ったのでした。
「よし。今こそ反撃の時。諸国の大名よ、我に力を貸せ。細川政元を討ち取るのだ」
北陸諸国にこう言って使いを出しますが、なかなか従いませんでした。
京都にいた細川政元は、すぐに足利義稙の動きを察知します。
「おのれ足利義稙!こんなことになるのであれば殺しておくのだった」
細川政元はすぐに諸国の兵を集め越中に攻め寄せますが、足利義稙はこれを撃退。その勢いの盛んなることを示しました。
明応3年(1494)足利義稙は打倒細川政元の正式な旗揚げを行います。
和平交渉
京都は俄かに騒然とします。
「おい、前将軍さまが、京都に攻め上ってくるってよ」
「なに、戦になるのか」
「将軍対将軍の戦だ。こりゃあえらいことになるぞ」
しかし、足利義稙はなかなか上洛してきませんでした。
それは、足利義稙に協力を呼びかけられた北陸の大名たちにとっては、
「しょせん将軍家の内輪もめだろう」
「関係ないよ」
「こっち持ち込むな。そんなことで戦に駆り出されるのはごめんだ」
…と、こういうことだったようです。足利義稙の陣営では、
「断固、細川政元と戦うべきだ」
「いや、和平を持ち掛けるべきだ」
意見が割れますが、まずは和平を持ち掛けようということで、大勢の意見がまとまります。
神保長誠(じんぼながのぶ)を和平交渉の責任者としてあたらせました。
京都はしだいに落ち着きを取り戻していきました。
「おい、やっぱり戦は無いってよ」
「和平が成立するらしい」
「いやーよかった。戦なんてこりごりだからな」
しかし。
結局のところ和平交渉は失敗しました。
細川氏内部で、和平などとんでもないという意見が出て、細川政元も和平を断念せざるを得ませんでした。それを受けて、足利義稙も決意します。
越前朝倉氏
「こうなったら戦うしかない」
となると武力が必要です。当初、足利義稙は周防の大内氏を期待していました。大内氏の大勢力が力を貸してくれれば、細川政元おそるるに足らず。
しかし。
その大内氏からの協力は期待できそうにありませんでした。なぜならこの頃、周防の大内氏は領内でお家騒動が起こっており、しかも、豊後の有力大名大友氏との戦いも始まっていました。これでは、大内氏の協力は期待することはできない。
そこで、足利義稙はどこに目をつけたか?
足利義稙は越前の一条谷を統治する朝倉氏に目をつけました。
越前朝倉氏
朝倉氏は大勢力を擁しており、これが味方してくれれば京都の細川政元おそるるに足らず。しかし、協力してくれるかどうかが、キモでした。
そこで足利義稙は自ら越前に出向いて、切々と味方してくれと朝倉氏に頼みますが、朝倉氏当主・朝倉貞景は、
「うむむ…」
なかなか首を縦に振らない。そりゃあ朝倉氏としても、大勢力を擁する細川政元と全面戦争したくはないですから、それを上回るメリットが、足利義稙に協力することにあるのかというと、無い。という結論になるわけです。
朝倉貞景はずるずると返事を引き延ばし、ううむ。や、しかし、などと言っていました。
開戦
そんな中、義稙にとって絶好の機会が訪れます。
京都南方で義稙に味方する畠山尚順(ひさのぶ)が、細川政元に味方する一族の畠山基家を攻め滅ぼしたのでした。畠山尚順の父は畠山政長で、前の河内攻めの時、足利義稙とともに戦い、最後には自殺した人物です。
その畠山政長の息子が畠山尚順です。畠山尚順は父政長と同じく、足利義稙に忠節心を持っていました。その畠山尚順が京都南方において、勝利し、足がかりを作ってくれたのでした。
「しめた!」
今こそ北の越前と、南の河内から同時に京都を攻めて、細川政元を挟み撃ちにする。好機は来たれり。がぜんいきりたつ足利義稙。
時に明応8年(1499)7月、
「今こそ京都を奪還するのだ!」
明応の政変(1493)で将軍職を失ってから6年目。足利義稙は34歳になっていました。将軍の位にありながら臣下によって捕らえられ、位を追われ、縄目を受け、夜陰なまぎれて脱出し、遠く越中・越前までさまよった。その屈辱を、足利義稙は今こそ晴らすことができるのか?
足利義稙 京都に迫る
明応8年(1499)7月、足利義稙は大阪方面の畠山尚順と相呼応してついに京都に攻め上ってきました。
「今度こそ戦だ」
「こりゃあ、応仁の乱以来のことだ」
「冗談じゃない。困ったことになったなあ」
京都はにわかに騒然とします。
畠山尚順は京都南方で次々と細川政元軍を破り、京都に迫ります。細川政軍は畠山尚順を防ぎ戦うに集中するあまり、北方から攻めてくる足利義稙まで手が回りませんでした。
その隙をうかがって、足利義稙は、越前朝倉氏の協力は結局得られないまま、わずかな勢力でその機動力を生かし、越前を出発。比叡山の東・坂本にまで迫ります。
「今こそ京都を取り戻してくれよう」
坂本と京都は目と鼻の先。破竹の勢いで京都に押し迫ろうとする足利義稙。
しかし、ここで思わぬ伏兵があらわれます。
「させるかーーっ」
六角高頼。足利義稙に討伐された近江の大名ですが、この頃は細川政元と同盟を結んでいました。その六角高頼の軍勢が、足利義稙軍の前に立ちふさがったのでした。
「ひ、ひいいーーっ」
「やられるーーっ」
もともと数の少ない足利義稙勢は散り散りとなって逃げていきます。
「攻め立てろ」
容赦ない追撃を加える六角高頼。
足利義稙は各所で散々に打ち破られます。足利義稙はいったん比叡山に逃げ隠れ、いずこかへと姿を消しました。京都南方で戦っていた畠山尚順は、北と南から相呼応して細川政元を退治しようという計画がダメになったため、
「くっ、こうなっては退くしかない」
本拠地の紀伊に引き返していきました。
こうして足利義稙の京都奪還作戦は完全に失敗に終わりました。明応8年(1499)7月のことでした。
「それで、足利義稙はどこへ行ったのか?
探せ!関係者も一人も逃すな!!」
細川政元は足利義稙の関係者の首に懸賞金をかけてまで探させましたが、その行方はようとしてしれませんでした。
次回「周防亡命」に続きます。
本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。ありがとうございました。