「流れ公方」足利義稙(二) 明応の政変
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こんにちは。左大臣光永です。秋晴れのいい天気が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?
私は昨日、西荻窪北口の飲み屋で飲んできました。実に楽しかったです。何がって、飲み屋にいる人たちが、飲み屋で知り合って、顔なじみになってるんですよ。たまたま隣に座った人に話しかけて、それで友達になるとか。年齢も、職業も、立場も違う人たちが酒を軸にワイワイと。一種のサロンのような場に、なってるんですね。ああ、こういうのは楽しいなあと思いました。私はしょっちゅう一人で飲み屋に入るんですが、なかなか見ず知らずの人に話しかける勇気はなかったんですが。しかしその勇気を、出さなくてはな~と思いました。
さて本日は「流れ公方・足利義稙(二) 明応の政変」です。
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室町幕府十代将軍・足利義稙は一般にはあまり知られない人物です。教科書にもまず出てきません。しかしその生涯の波乱万丈なことは織田信長や豊臣秀吉よりもよほど勝っています。
クーデーターにより将軍職を追われ、捕らえられるも、自力で脱出して越中に亡命し、京都奪還の機会をうかがいましたが、撃退され、今度は周防に亡命。雌伏すること8年。
8年目に、政的細川政元が殺された後の混乱に乗じて、ふたたび京都に攻め上り、将軍の座に返り咲きました。
計15年間も京都を離れ地方に潜伏していたことから「流れ公方」と言われます。しかし15年のを経て、流れ公方足利義稙は将軍の座に返り咲いたのです。
なぜ、足利義稙はこのような大逆転を遂げることができたのか?その生涯をたどっていきます。
細川政元の挙兵
将軍足利義稙が河内で畠山基家討伐を行っていた明応2年(1493)4月。京都で、大事件が起こりました。
明応の政変
「進めーーーっ!」
どかかどかかどかかどかか…
畿内一の有力大名である細川政元が京都で兵を挙げたのです。さてその目的とは?将軍義稙の追放。そして新たな将軍として義稙の従弟にあたる清晃(せいこう)を迎えることにありました。
「清晃さま、諸国の大名は、うち続く外征に苦しんでおります。今こそ、あなた様が新たな将軍となっていただきたい」
「そんな…私はただの僧侶じゃ。政治のことなぞ、わからんぞ」
「あいやご心配なく!すべては我ら細川家が補佐いたしますので」
足利義稙と足利義澄
清晃は伊豆に拠点を持つ足利政知の息子で、足利氏と関係の深い天竜寺香厳院(きょうげんいん)の住持となるべく京都に迎えられていました。この時14歳。この後、還俗して足利義遐(よしとお)と名乗り、後に義高(よしたか)と改め、さらに義澄(よしずみ)と改めます。一般には義澄で通っているので、以後、義澄で統一します。
細川政元は義澄の身柄を押さえると共に、京都にいる足利義稙の関係者や親族の館を次々と襲撃しました。
正覚寺合戦
「なに!京都で政変!」
細川政元が京都で兵を挙げたという知らせは、すぐに河内の足利義稙のもとに伝えられます。
「うぬう細川政元め留守を突くとは卑劣な!すぐさま京都に引き返し、細川政元を打て!」
「それが殿…申し上げにくいのですが」
「なんじゃ」
「大名たちは、殿を見捨てて、細川につくべく、次々と京都に引き返しております」
「くぬうううううう!!!」
多くの大名は、義稙を見捨てました。義稙に味方したのは畿内の畠山政長ほかわずかな者でした。こんなにも義稙が大名たちから支持されなかったのは、なぜでしょうか?それは義稙は将軍といっても長く美濃で生活していたのであり、上洛してわずかに三年でした。
そのため、大名たちは義稙に対して別段の恩義を感じていなかったようです。その上、近江の六角氏討伐に続き、河内の畠山討伐と、うち続く遠征に、嫌気がさしている者も多くありました。それが、今回の裏切りにつながったようです。
「足利義稙、おそるるに足らず!!」
どかか、どかか、どかか、どかかーーー
細川政元の軍勢4万が京都から河内へ攻め寄せます。
「ええい。こうなったら徹底抗戦じゃ!!」
足利義稙と畠山政長は正覚寺(大阪市平野区)に立てこもますが、しだいに食料も尽きてきました。その上、頼みにしていた紀州からの援軍は、細川方にはばまれ、到着できませんでした。
「もはやこれまで…」
畠山政長は絶望して自害します。
「くっ…ここまで追い詰められるとはな…」
観念した足利義稙はわずかな供回りとともに正覚寺を出て、細川方に降参しました。捕らえられた義稙はまず四天王寺に押し込められ、翌月の明暦2年(1493)5月、京都に護送され、北山の龍安寺に幽閉されました。
さて。
細川政元のクーデターがこうまで見事に成功した裏には、ある人物の支持があった、といわれています。その人物とは、御台所として40年以上にわたって足利将軍家に君臨してきた、あの人。そう。日野富子です。
日野富子は三年前、足利義稙を将軍に推した張本人ですが、その日野富子自身が、今度は足利義稙を追い落とす陰謀に力を貸す。なんともおかしな話じゃないですか。いったい、どういうことなんでしょうか?日野富子の中でどんな変化が起こったのか?
それはおそらく、三年の間に義稙の行いを見ていて、将軍の器ではないと判断したのかもしれません。ことに、近江六角氏の討伐、続く河内畠山氏の討伐と、うち続く遠征に諸大名はウンザリしていました。
「義稙の暴走を止めなくてはならない」
そう、富子は判断したのかもしれません。ともかく、細川政元のクーデターは成功し、足利義澄が11代将軍に就任し、前将軍足利義稙は龍安寺に捕らわれ人となりました。
しかし!
話はこれで終わりません。さらなる大事件が待ち構えていました。
毒殺未遂事件
明応2年(1493)5月6日。足利義稙が幽閉されている龍安寺で、まず一つの事件が起こります。
「う…ぐぬぬ…ぐはあああっ」
「はっ…?殿!いかがなされました!殿!」
「毒じゃ、…毒じゃああーーー」
足利義稙は夕食に毒を盛られて、死にかけたのでした。なんとか薬を飲んで一命をとりとめたものの、誰が毒を盛ったかが問題でした。
そこで細川方が食事係を問い詰めた所、
「日野富子さまに、命じられました…」
「なんと!御台所さまが…!?」
細川方は絶句します。3年前、足利義稙を美濃から上洛させ、将軍に推薦した日野富子が、今度は当の足利義稙を毒殺しようとした。にわかには信じがたいことでした。
本当に日野富子が犯人なのか?
事件の真相は、いまだわかっていません。ともかく、このままではまずいということで、細川方は足利義稙の身柄を龍安寺から細川政元の重臣・上原元秀の屋敷に移します。食事の管理も以前にまして徹底させます。
出奔
上原元秀の屋敷で、足利義稙はそれなりの敬意をもって待遇されました。酒の差し入れなどもありました。数人の部下を従えることも許されました。細川政元としても、旧主にあたる足利義稙に対してそれなりの礼儀は尽くすつもりでした。ひどい扱をするつもりはありませんでした。
「いやあ…こうして酒を飲んでいると、捕らわれの身を忘れてしまいそうです。上原殿にはどれほど感謝していることか」
「いいえ、もったいないお言葉です…」
なんてやり取りもあったかもしれません。ところが、足利義稙の今後の処遇について、ある噂が聞こえてきました。
「小豆島に流されるらしい」
それを聞いて、足利義稙は決心しました。
明応2年(1493)6月29日。激しい嵐の夜、足利義稙は夜陰にまぎれて上原邸を抜け出します。数人の家臣だけを連れて、いずこかへと姿を消してしまいました。翌朝。
「何をやっていたのだ!なぜちゃんと見張っていなかった!!」
「ひいい、申訳ございません!」
激怒する細川政元。
「ええい。心当たりはないか。洛中洛外、くまなく探せ!必ず見つけ出せ!」
しかし、いくら探しても足利義稙の足取りはようとしてつかめませんでした。
いったい足利義稙は、どこに消えてしまったのか?
次回「越中亡命」に続きます。お楽しみに。
明日は商品のご案内をお送りさせていただきます。
本日も左大臣光永がお話ししました。
ありがとうございます。ありがとうございました。