「流れ公方」足利義稙

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こんにちは。左大臣光永です。サワヤカな秋晴れの一日、いかがお過ごしだったでしょうか?

私は先日、大学時代の友人三人と江古田で飲みました。とても楽しい時間だったのですが、後で思うと何かモヤッとした違和感が残りました。あれっ、何だこれは?いろいろ考えた所、微妙な距離感というか、核心にふれる話題を注意深く避けてる感じがあったんですね。

なんか大学時代はもっと危ない話題も、相手のプライベートにズカズカ踏み込むようなことも、下手したらケンカになりそうな話も、してたなァと思うわけですよ。

そういう、ちょっとでも地雷踏みそうな危険信号を避けて、避けて、上澄みのキレイな所で会話が進んでる感じがしたんですね。ああ、こういう作法を身に着けるのが年を取るということかと、少し寂しい感じもしました。

さて本日は、「流れ公方」足利義稙です。

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室町幕府十代将軍・足利義稙は一般にはあまり知られない人物です。教科書にもまず出てきません。しかしその生涯の波乱万丈なことは織田信長や豊臣秀吉よりもよほど勝っています。

クーデーターにより将軍職を追われ、捕らえられるも、自力で脱出して越中に亡命し、京都奪還の機会をうかがいましたが、撃退され、今度は周防に亡命。雌伏すること8年。

8年目に、政敵細川政元が殺された後の混乱に乗じて、ふたたび京都に攻め上り、将軍の座に返り咲きました。

計15年間も京都を離れ地方に潜伏していたことから「流れ公方」と言われます。しかし15年を経て、流れ公方足利義稙は将軍の座に返り咲いたのです。

なぜ、足利義稙はこのような大逆転を遂げることができたのか?その生涯をたどっていきます。

足利義尚の時代

九代将軍足利義尚(よしひさ)はすでに応仁の乱のさなかの文明5(1473)父義政(よしまさ)から将軍職を譲られていました。しかし文明15年(1483)父義政が東山山荘(銀閣)に隠居してから、いよいよ本格的に義尚時代に入っていきました。

「応仁の乱で幕府の権威は地に落ちた。私は幕府の権威を取り戻したい」

それが義尚の考えでした。長享元年(1487)近江国の守護大名・六角高頼(ろっかくたかより)が公家や寺社の領土に不当に侵入していました。

「六角高頼、許し難し」

足利義尚は2万3千を率いて近江に出陣します。六角高頼は観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町繖きぬがさ山)にこもって抵抗するも、かなわぬと見て城を放棄。甲賀山中に逃げ込みます。

「追えっ」

すぐに義尚は軍勢を率いて六角高頼を追いますが、六角高頼は各地でゲリラ的戦闘を繰り返し、戦は長引きました。一年半後の延徳元年(1489)義尚は近江国鈎(まがり。滋賀県栗東りっとう市)の陣中で没しました。享年24。

ながらへば人の心も見るべきに
露の命ぞはかなかりける

義尚は容貌まことにすぐれた美青年であり「緑髪将軍」の異名を取りました。また早くから一条兼良から和歌を習い、歌道に熱心でした。みずから「新百人一首」を編纂しています。

死因は酒の飲みすぎであったようです。義尚も後半は政治に嫌気がさし酒食におぼれていました。その間にも鈎には多くの臣下が出入りし、まるで第二の御所のような賑わいだったと伝えられます。

足利義稙 美濃より上洛

遺骸は相国寺常徳院に葬られ、後に大光明寺(京都市上京区)に移されました。

「義尚…義尚…」

母日野富子は愛する息子義尚の死に嘆き悲しみ、声も惜しまず泣き悲しみました。しかし悲しんでばかりはいられませんでした。義尚には男子がいませんでした。そこで富子の考えは、

足利義視の子・義材(よしき)を次期将軍に立てるというものでした。後に名を義尹(よしただ)とあらため、さらに義稙(よしたね)とあらためます。一般には義稙で通っているので、以後、義稙で統一します。

足利義尚、足利義稙
足利義尚、足利義稙

日野富子は足利義稙を次の将軍として強く推しました。なぜ日野富子は足利義稙を推したのでしょうか?

それは、足利義稙は義尚の猶子ともなっていました。また義稙の母は日野富子の妹です。こうしたことから日野富子は義稙こそ次期将軍候補としてふさわしいと考えたのでした。

ただし、前将軍義政とその弟・義視の間には深い確執がありました。

応仁の乱のさなか、義政と義視は、それぞれ東軍と西軍の旗印となり、東西二つの幕府が並び立つような形となり、対立していました。

文明9年(1477)応仁の乱が終結すると、義視は京都を出て美濃に亡命し、美濃の大名土岐成重(ときしげより)に保護を求めました。

「戦が終わったとはいえ、さんざん対立してきた私を、兄は許さないでしょう。どうか土岐成重殿のお力をお借りしたい」

「うーむ。頼ってきたものを見捨てることはできぬ。この美濃で、ほとぼりが冷めるまで過ごされるとよい」

こんな感じだったでしょうか。この時、嫡男の義稙も父義視とともに美濃に下っています。時に足利義稙12歳。以後、24歳までの12年間を、義稙は美濃で過ごしました。

そして延徳元年(1489)、足利義視・義稙父子は日野富子の招きを受け、12年ぶりに京都の地を踏むことになったのでした。

「いかがですか、久しぶりの京は」
「ははっ…京に戻ってこられたのはひとえに御台所さまの御恩…
何とお礼を申し上げてよいやら」

すぐに日野富子は義稙を自宅である小川(こがわ)御所に住まわせます。富子が義稙を自宅に住まわせたということは、富子が義稙を次期将軍として支持していることをあらわしていました。

足利義稙の将軍就任と日野富子の引退

翌延徳2年(1490)、前々将軍足利義政が死ぬと、日野富子の強い後押しにより足利義稙が十代将軍として就任しました。

「これで、私の役目は終わった…」

日野富子は、夫義政の死後、すぐに髪をおろし、自宅に引きこもり、政治の表舞台から退きます。

足利義稙の外征

こうして就任した十代将軍足利義稙ですが、世間にはいまいち義稙を歓迎する空気がありませんでした。

「今度の将軍さまはずっと美濃にいたんだってよ」
「なんだい、それで政治のことなんか、わかるのかねえ」
「日野富子さまの後押しがなけりゃ、とても将軍になんてなれなかったろうよ」

巷の声は義稙の耳にも届いたことでしょう。

「世は思いがけないめぐりあわせにより将軍となった。いかにも急なことで、これからうまくやっていけるのか、心もとない。だがやるしかない」

義稙が将軍に就任した翌年の延徳3年(1491)、義稙の父義視が享年53で亡くなります。もはや父義視の補佐は受けられない。義稙は是が非でも独り立ちしなければならない状況に追い込まれました。その上各地の大名たちも義稙を将軍として支持していない。義稙は焦ります。

焦った義稙は何をしたか?外征です。外に攻めていったんです。おそらく大名たちの目を外の敵に向けさせことで、将軍家に対する不満をそらし、一致団結させようとしたのでしょう。明応元年(1492)4月。

「前将軍足利義尚も手を焼いた近江の六角高頼が、またも勢いを盛り返してきた。余自らか陣頭に立ち、六角高頼を討伐する。諸国の大名よ、力を貸せ」

こう言って義稙は、諸国の大名に呼びかけます。前管領・細川政元は、

「およしください。そのような無益な遠征など!」

止めますが、義稙は断固、遠征を行うのでした。大軍を率いて近江に侵攻し、敵の大将・六角高頼は取り逃がしたものの、じゅうぶんな戦果を上げ、京都に帰還しました。しかし、これで終わりになりませんでした。

翌明応2年(1493)正月。

「今度は河内の畠山基家を討つ!諸国の大名よ、力を貸せ!」

河内の畠山氏は、応仁の乱の以前から次期当主の座をめぐって、たびたびお家騒動を繰り返していました。この時、次期当主の候補者として畠山政長・畠山基家がいましたが、このうち畠山政長が将軍義稙に接触し、「畠山基家を倒してください」と頼んできたのでした。義稙はこれを受けて、畠山基家討伐に乗り出しました。

「畠山基家、恐るるに足らず!攻めろーーーッ」

今回も義稙自らが陣頭に立ち、諸国の大名を率いて、畠山の城を次々と落としていき、もはや勝利は目前と見えた、その時!

思わぬ出来事により、足利義稙は足元をすくわれることとなります。京都で、ある陰謀が進められていたのでした。

次回「明応の政変」に続きます。

本日も左大臣光永がお話ししました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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