足利義政と東山山荘

応仁の乱への義政の態度

東山山荘観音殿(銀閣)
東山山荘観音殿(銀閣)

応仁の乱に対して、足利義政は徹底した無関心・無責任を貫きました。

応仁元年(1467)、応仁の乱のさなか、御所の隣の相国寺が炎上した時、日野富子以下、将軍御殿の女たちはあたふたと大騒ぎしましたが、義政は一人ゆうぜんと酒を飲んでいました。そこへ、一人の武士がひざまづき、

「これが最後の戦場となりそうです。あの世への形見として、盃をいただきたい」

「うん。左様か。取らす」

「ああ…ありがたきこと。我が百年の命を、君の一日の御恩のために捧げます。御免」

男は出陣し、ほどなく戦死の知らせが入りましたが、義政は表情ひとつ変えず酒を飲み続けていました。

このように、足利義政の応仁の乱に対する姿勢は、無責任・無関心そのものでした。

形の上では細川勝元の東軍に属していたものの、積極的に戦を指揮するでも、止めに入るでもありませんでした。

はかなくも なほ収まれと 思ふかな
かく乱れたる 世をばいとわで

うち続く戦乱は世のはかなさを実感させるが、それでも戦は終わると思っている。
ここまで乱れた世であるが、世を厭う気持ちは持つまい。

義政の応仁の乱に対する姿勢はこの歌に集約されています。完全に他人事です。「お前がどうにかしろ!」とも言いたくなります。

家庭の不和

また家庭人としての義政は、たいへんに不幸でした。妻日野富子と息子義尚との生活は、義政の心に何ら安息をもたらしませんでした。妻日野富子とは衝突ばかりしていました。ケンカが絶えませんでした。

将軍御殿である室町第には、戦を避けるため、後土御門天皇が避難されていましたが、文明3年(1471)頃、よからぬ噂が立ちます。

「日野富子さまが帝と通じているらしい」
「ええ…ほんとうかい」

まことしやかに、噂されるのでした。噂は義政の耳にも入ります。もっともこれは誤報でした。実際には天皇が富子の侍女と通じたというだけの話でした。なので富子は潔白だったのですが、義政・富子の間には冷たい空気が走りました。

また息子義尚との関係もギクシャクしていました。義政は早くに義尚に将軍職を譲ったものの、なかなか政治の実権までは義尚に渡しませんでした。特に日明貿易の利益をガッチリ握っていることが、義尚には不満でした。

また、義政の側室となっていた娘に、義尚はひそかに思いを寄せていました。愛しいあの女性は父の側室。くっ…どうにもならぬ…その忸怩たる思いも、義尚と義政の対立を深める一因となりました。

「ふんッ!せめて好き勝手にやらせてもらいますよ」

義尚はあてつけのように贅沢をしたり、放蕩三昧にふけるようになります。

また義尚には奇矯な行いが目立ちました。いきなりもとどりを切って出家すると言い出したり、抜刀して人を追いかけまわしたり…父義政はもうイヤになってきました。

「皆は将軍の言うことをきかぬし、妻も子も勝手なことばかりしておる。私の安息の場はどこにもない」

東山山荘の構想

失意の足利義政の心をとらえたのは、風流の世界でした。義政は応仁の乱のずっと前から禅僧たちと交流を持ち、水墨画や禅、連歌の世界に関心を持っていました。早くも文正元年(1466)には、京都東山を下見しています。

「ああ東山は美しい。心が洗われるようじゃ。よし、決めたぞ。わしは東山に隠居場所を作る。誰にも邪魔されず、風流の世界を満喫するのじゃ」

そして実際に造営計画を進めていましたが、応仁の乱の勃発で予算の工面がつかなくなってしまいました。それでも義政にとって、不仲の日野富子や義尚とともに室町第に住み続けることは、もうガマンができないことでした。

文明6年(1474)新しく小河御殿が完成すると、義政は日野富子と義尚を室町第に残したまま新邸に引っ越します。ようやく邪魔者と縁が切れて静かに生活できる。しかし安心したのもつかの間。

二年後、室町第が火事で焼けて、日野富子・義尚は小河御殿に移ってきます。ええい、鬱陶しい。どこまでも追って来おるわ。すぐに義政は小河御殿を逃げ出し、洛北の岩倉長谷聖護院(ながたにしょうごいん)山荘に移ります。

その間にも義政は「いつかは東山に隠居場所を…」という構想だけは持ち続けていました。

東山山荘の造営

文明14年(1482)、義政はついに東山山荘の造営に着手します。予算は日明貿易の利益から当てますが、足りないので、各地の守護大名に献金を持ち掛けました。

しかしほとんど応じないです。そこで国々の土地について臨時課税を行ってまかないました。

それでも足りないので、今度は公家や大寺社にも課税しました。とにかく、何をやっても東山山荘だけは完成させる。それが義政の執念でした。

翌文明15年(1483)義政の住まいとなる常御所(つねのごしょ)が完成し、義政は早くも新居に移ってきました。忌まわしい政治の世界から一刻も早く離れたい。そういう一心だったでしょう。新居に移った翌日、義政は後土御門天皇から「東山殿」の号を賜ります。

義政は東山山荘を築くにあたって、祖父義満の北山山荘を何度も見学しました。荘厳に光り輝く金閣は、義政の目にはしかし、いかにも悪趣味に思えました。

北山第(金閣)
北山第(金閣)

「私の東山山荘は、これとは違う。私の東山山荘は、断じて北山山荘の劣化版であってはならない…」

事実、あらゆる点において、義政の東山山荘は、義満の北山山荘と違っていました。そもそも足利義満は、隠居後も大御所として政治の舵を取り続けるために、その拠点として北山第を築いたのです。金閣はあくまで政治の場であり、公的な場でした。

ところが義政の東山山荘は、まったく政治向きのことを考えていませんでした。義政は東山の美しい緑の中に、政治を持ちこむことを徹底して嫌いました。そのため東山山荘には公の行事を行う場所などは一切なく、ただ風流を楽しむことが第一にされました。

東山山荘に招かれたのも風流を愛する人たちのみで、その中には身分卑しい河原者といった者も多く含まれていました。義政にとっては身分など関係なく、ただ風流を愛する感性があるか。それのみが、人を招き入れる条件でした。

10年近い歳月を費やして東山山荘には十以上の建物が造営されましたが、現在形を留めているのは東求堂と、観音殿(銀閣)のみです。

東求堂
東求堂

観音殿(銀閣)
観音殿(銀閣)

その東求堂は長享元年(1489)頃完成しました。東山山荘全体が禅の思想のもとに造営されているのに対し、東求堂は浄土思想に基づいていることに特徴があります。「東求」は「東方の人、西方の浄土を求める」という言葉から来ています。持仏堂である東求堂内には阿弥陀三尊像が安置され、前面の池には白蓮をたたえていました。

また襖絵には狩野正信(かのうまさのぶ)による「十僧絵」が描かれました。これは、念仏を唱えることで阿弥陀仏の救いにあずかれると説いた浄土宗の注釈書「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」によります。

東求堂内の書院は同仁斎と名付けられ、四畳半の茶室の始まりと言われます。ここでは義政みずからが茶を立てて客にふるまいました。

今日「銀閣」として知られる観音殿は、義政の死後完成しました。銀閣、といっても銀箔が押してあるわけではなく、こけら葺きの屋根を持つ渋い建物です。ちなみに銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代からです。

二層からなり第一層を心空殿(しんくうでん)、第二層を潮音閣(ちょうおんかく)といいます。第一層心空殿は書院造、第二層潮音閣は板壁に華頭窓をしつらえた仏殿様式です。屋根の上の鳳凰像は青銅製で、潮音閣の観音像を守っています。

もともとは銀箔を押す予定だったようですが、応仁の乱と打ち続く一揆により幕府には予算がなく、断念したとも言われます。しかし、結果として渋い山水画のような建物が出来上がり、今日に到るまで親しまれているわけです。

義政はこれらの建物の造営について、一切の妥協を許さず、自らの思い描く理想の美を実現するために、心血を注ぎました。もちろん、多くの技術者の手を借りたのですが、最終的にはすべて義政自身が判断し、ダメであれば修正させ、時にはすべて壊して一から作り直させました。予算が無いので妥協…などということは一切ありませんでした。

足利義政は政治においては優柔不断で、気の弱い人物でした。その優柔不断さが、応仁の乱を11年も長引かせた一因といえます。しかし美の追求においては義政は一切の妥協を許さない、徹底した完璧主義者でした。

義政の時代の建物は多くが応仁の乱と戦国時代の戦火で焼け、その痕跡も届けめていません。しかし東山山荘・銀閣は何度も改修されたものの、今日までほぼ原形を留めて残り、義政の見出した美意識は今日まで日本人の根幹をなすものとして生き続けています。

義政の出家

文明17年(1485)6月、義政は洛北嵯峨の臨川寺三会院(さんえいん)で出家しました。祖父義満は出家した後もかつての法皇のような立場から政治を牛耳ろうという考えでしたが、義政の出家は義満のそれとはまったく違っていました。

「もう政治はこりごりだ」

とことん、風流の世界に没頭したいという考えからでした。いちおう禅宗ではありますが、禅の教えについては義政は関心は薄く、禅僧たちが中国からもたらす美術品や、水墨画など「わび」の世界にもっぱらの関心がありました。

わが庵は月待山のふもとにて
かたむく月のかげをしぞ思ふ

義政の、その美的こだわりの粋を集めた東山山荘観音殿・銀閣が完成したのは、延徳2年(1490)義政が死んで間もない頃でした。

京都文化の地方への伝播

さてこの時代の文化面における特徴を言うならば。京都文化が地方へ広がったことが挙げられます。

応仁の乱で京都は破壊され、貴族も皇族も、芸術家を庇護するほどの余裕がなくなってしまいました。

「京都はもう連歌どころじゃないですよ」
「私は地方に行きます。食っていけませんから」

こんな感じで文化の担い手たちは地方に旅立っていきました。

絵師の雪舟は周防の大内氏、豊後の大友氏をたより、この両大名の庇護のもと、ぞんぶんに芸術活動に没頭。二度と京都には戻りませんでした。

連歌師の宗祇は、周防の大内氏、若狭の武田氏、能登の畠山氏、越後の上杉氏など各地の大名をたずね連歌を教えたり『源氏物語』や『古今和歌集』の講義を行いました。

このように、応仁の乱の破壊は京都文化の地方への伝播という結果をもたらしました。

なぜ、彼ら雪舟や宗祇は地方で歓迎されたんでしょうか?

それは応仁の乱によって京都は破壊し尽くされ、もはや京都にいる皇族や貴族たちに昔日の権威は無くなりました。

かわって実権を握ったのが地方の守護大名たちでした。彼らの中には軍事力においても経済力においても朝廷や足利将軍家をはるかにしのぐ者も現れました。

しかし、それでも平安京が数百年の時をかけてつちかった高い文化は、地方の守護大名たちにとって憧れの的でした。『源氏物語』や『古今和歌集』の描くきらびやかな平安文化の世界。それこそが、自分たちが逆立ちしても得られない、価値の高いものでした。

むしろ現実の京都が破壊され、焼け野が原になったからこそ、古典世界の京都が華やかに輝いて見えたのかもしれません。

そのため宗祇のように古典を講義し、京都文化をもたらしてくれる者は地方で大歓迎されました。

次回「蓮如(一) 大谷本願寺」に続きます。

解説:左大臣光永

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