山城国一揆

文明17年(1485)

京都南方・南山城では、応仁の乱が終わった後も、畠山義就と畠山政長の争いが続いていました。

京都から宇治を経て奈良方面に攻め寄せる畠山政長。

河内から京都方面に攻めていく畠山義就。

両軍は南山城(久世・綴喜)にて向かい合います。その数政長方1500。義就方1000。

両軍総力を結集した、ここぞという勝負なだけに、容易には動けません。

「ぐぬぬぬ…まだ動かぬか」
「ええい、そちらから動いてみよ」

ニラミあいのまま、日数だけが過ぎていきます。

その間、京都と奈良の間の交通は遮断され、両軍が検閲を行うので人の行き来もままならない状態でした。

迷惑です!

「いい加減にしろ!」

怒ったのが、南山城の国人衆…地元武士たちでした。

「冗談じゃない!もう応仁の乱は終わったんだろ!いつまでもグチャグチュグチャグチャやりやがって」

「畠山のケンカは畠山だけで決着つけてくれ。巻き込まれるのは御免だ!」

南山城の国人たちは、両畠山陣営に、三つの要求を突きつけます。

一、畠山軍は出ていけ。
一、取り上げた土地は元の領主に返せ
一、新しい関所を設けるな

「な…なな!」

「要求に従わない場合は攻撃する」

ガチャガチャガチャガチャ

持ち寄った武器を構える国人衆。

「これは…どうにもならぬ」

両畠山軍は、撤退する他ありませんでした。

「勝った!我らの勝利だ!」
「二度と来んなバーカ」

「くうううぅ…国人風情が…」

向かい合って戦っていた畠山勢を、地元の国人衆が追い出した!まさに、下剋上のさきがけといっていい事件でした。

文明17年(1485)12月、山城国一揆です。

翌、文明18年(1486)2月、山城の国人衆は宇治の平等院に終結し、

「これからは幕府の支配には屈さない。我ら独自に国を治めていく」

そう言って、自分たちで国を治めるための掟を取り決めました。この自治のための機関を「惣国(そうこく)」といいました。

将軍足利義政としては、山城の国人衆によって両畠山が追い出されたことは歓迎すべき事態でしたが、

「だからといって自治を行うは行き過ぎだ。幕府の指示に従いなさい」

そう言って伊勢貞陸(いせさだみち)を山城国の守護に任じました。しかし、だからといって、山城の国人衆を武力鎮圧するとか、解散させるということはしませんでした。山城国の自治は、将軍家からも黙認された形となったわけです。

次回「足利義政と東山山荘」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永

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