応仁の乱(三)大乱終結

長引く戦

その後も応仁の乱は長引き、都は荒れ果てていきました。西軍・東軍双方が衝突するたびに寺や家々が燃やされました。もはや通常の商業活動など、不可能でした。また、京都七口のうち六つが西軍におさえられ、外部との行き来ができなくなりました。

人々は狭い平安京に閉じ込められた形で、たちまち食糧難となりました。土倉や酒屋といった高利貸しの屋敷に討ち入り、強盗がふえました。応仁二年に入ると、戦は洛中だけでなく、洛外にまで及びます。『応仁記』は応仁の乱のありさまをこう語ります。

計らざりき、万歳期せし花の都も今何ぞ狐狼(ころう)の伏土(ふしど)とならんとは。適(たまたま)残る東寺北野さへ灰土となるを、古(いにしへ)にも治乱興廃(ちらんこうはい)のならひありといへども、応仁の一変は仏法王法ともに破滅し、諸家(しょけ)悉(ことごと)く絶えはてぬるを感歎にたえず、飯尾彦六右衛門尉一首の歌を詠じける。

汝(なれ)やしる都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は

なぜ戦が長引いたのか?

戦が長引いた要因として、戦術の変化が挙げられます。古来、市街戦は短期間で終わることが多かったです。保元の乱は4時間で決着がついていますし、南北朝時代の京都争奪戦も、ほとんどが一日以内か数日でケリがついている。

それがなぜ、応仁の乱では11年も長引いたかというと、戦術の変化…たとえば、投石器…大きな器具でボーーンと石を空中に投げ上げる兵器が使われた、そして塹壕を掘った、京都市中の大きなお屋敷の周りに堀を掘って、普通のお屋敷を、城砦化した。この城砦のことを「構え」といいます。これによって、双方が城に立てこもって城砦戦をするような形となって、戦が長引きました。

そして、足軽の登場。これが大きかった。正規の武士ではなく、雇われ武士ですね。浪人や悪党という、正規の武士でない者を傭兵して雇った。だから倫理観もありません。火つけ・盗賊当たり前。戦してんだか強盗やってんだかわからない。戦うついでに寺や大きなお屋敷に乱入して、ブチ壊してしまえ!火を付けろ!ワーーと襲い掛かる。こういう、足軽というものの登場によって、戦のありさまがより悲惨に、泥沼試合になっていきました。

特に東軍の足軽大将・骨川道賢は有名です。東軍方としてさんざん町を焼き、暴れました。最期は西軍畠山義就の家臣に捕らえられ、斬られました。

戦っている兵士たちもそうとうイライラしていました。こういう話が伝わっています。西軍の一色某と畠山義就の部下たちが、ストレスがたまるから、余興でもしようということで、ギッチョウで遊んでいた。ギッチョウというのは木の棒を持って、木の毬をこずいて敵の陣地に打ち込むゲームです。

結構盛り上がった。盛り上がりすぎたんですね。双方イライラしてるから、熱くなってる。勝敗のことでモメて、こっちが勝ったじゃないか。いやいやこっちだ。何言うかこの野郎!そこへなおれ。斬り合いになってしまって、80人くらい死傷者が出てしまったということで。応仁の乱の長期化は人の心をゆがませ、イライラさせていました。

足利義視、西軍につく

応仁二年(1468)足利義視は足利義政・細川勝元の度重なる招きに応じて、ふたたび東軍に加わります。もとより義視には気がすすまない話でした。

東軍には足利義視を嫌う日野勝光・日野富子らがいるからです。日野勝光・日野富子らは日野富子と足利義政の間に生まれた義尚を次の将軍に立てようとしていました。

なので、もう一人の将軍候補である足利義視が邪魔です。なので、日野勝光・日野富子は何かにつけて、足利義視を嫌いました。

細川勝光と足利義視
細川勝光と足利義視

しだいに義視は東軍の中に居場所を失っていきます。見かねた細川勝元が義視に言います。

「いっそもう、御出家されては…」

ブチッ。

「もともと私は出家していたのだ!それをゼヒ将軍になってくださいと引っ張り出したんじゃないか。それを今や邪魔者扱い。もう耐えられぬ!」

再び義視は東軍を脱出します。まず、西軍の斯波義廉の陣に逃れました。そして西軍全体から歓迎されます。

「よくぞいらしてくださいました!西軍では義視さまを将軍として遇します!」
「うむ。共に戦おう」

旗印の無い西軍にとって、将軍の擁立は願ってもないことでした。ここに、足利義政をいただく東軍(東幕府)と、足利義視をいただく西軍(西幕府)と。東西二つの幕府が並び立つ、前代未聞の事態となりました。

足利義政をいただく東軍と、足利義視をいただく西軍と視
足利義政をいただく東軍・足利義視をいただく西軍

それ以前の義政は、成り行き上東軍に属していたとはいえ、積極的に山名宗全を憎むでもなく、討伐するでもなく、むしろ和平の道をさぐろうとしていました。しかし、弟の義視が西軍に走ったことで、まったく状況が変ります。

義政もグズグズしていられなくなりました。「これはいけない」と、後花園上皇に働きかけ、足利義視と西軍討伐の院宣を下されます。ここに至り足利義視と山名宗全は、完全に朝敵となりました。

足利義尚の擁立

日野富子としては邪魔者・義視を追い出せてほっとしたでしょう。わが子義尚を次の将軍とするのに、障害はなくなったわけです。むしろその障害は敵方につき、公然と討伐できるようになった。「うまくいっている…」ほくそ笑む日野富子。こうして、

文明元年(1469)正月。わずか5歳の足利義尚が、次の将軍として披露されました。

西軍、小倉宮王子を擁立

翌文明2年(1470)西軍は昨年迎えた足利義視に続き、南朝の遺臣を名乗る小倉宮(おぐらのみや)王子を迎えます。

「紀伊にいまだ南朝を名乗る輩がいるようです」
「なに、それは使えるかもしれん」

そんな感じで、紀伊に使者をとばし、交渉の末、西軍につかせたものでした。足利義満が南北朝を合一したのが1392年。それから実に80年近く経っているのに、南朝の亡霊は、まだ死に果ててはいなかったのです。翌文明3年(1471)、小倉宮は京都西陣に入ります。

かくして、足利義政・後土御門天皇を擁する東軍と、足利義視・小倉宮王子を擁する西軍という図式が出来上がります。しかし…

足利義政・後土御門天皇を擁する東軍と、足利義視・小倉宮王子を擁する西軍
足利義政・後土御門天皇を擁する東軍と、足利義視・小倉宮王子を擁する西軍

そのような形式は末端で戦っている兵士たちにはどうでもいいことでした。いつまで続くんだ。このバカな戦いは。もうどっちが勝ってるかわからない…。兵士たちの間には厭戦気分が蔓延していました…

山名宗全・細川勝元の死

文明4年(1472)西軍総帥山名宗全は、東軍に講和を持ち掛けます。もはやこれ以上戦っても意味は無い。そう判断したのでしょう。しかしこの時は、反対派の赤松政則の意見が強く講和はなりませんでした。

「まだ続くのか戦は」
「国元で一揆が起こってるよ。もう都で戦ってる場合じゃないんだ」

恨み嘆きの声は巷に満ちます。ところが、

翌文明5年(1473)事態が一変します。西軍の総帥山名宗全が70歳で死んだのです。その二か月後には、東軍の総帥細川勝元も44歳で死にました。もはや東西両陣営はトップが倒れたのでした。これ以上戦う意義は無くなりました。

講和

「もう戦はこりごりです。仲良くやりましょう」
「そうですとも。これ以上の戦いは、いやこれまでだって、無意味でした」

文明6年(1474)4月、細川勝元の息子政元と、山名宗全の孫政豊が会見し、講和が成立しました。講和といっても双方別段の条件があるわけでもなく、ようするに、もう戦はやめましょうというだけでした。

足利義視は、西軍の大将として祭り上げられていましたが、「これはそもそも私の意思から出たことではありません。兄上に背く気などなかったのです」そう言って謝って、義政は「そうか、わかった」と受け入れて、ここに6年ぶりに兄弟の和解がなりました。

和平交渉には義政の妻・富子が大きな役割を果たしました。というのは富子は西軍についた義視とも親類関係にあったからです。足利義視は日野富子の妹を、妻に迎えていました。そのため、日野富子が中心となって、義政と、義視の和解の橋渡しをして、兄弟の和解の道をさぐりました。

その見返りに富子はいっぱい金受け取ってんですけども。けして私利私欲だけから出たことではない。世の中を平和にしたい、不毛な戦をはやく終わらせたい、という気持ちもあったかと思います。

7年間にわたる戦乱で京の町はすっかり灰塵と化し、どちらが勝ったか、負けたかもわからない状態となっていました。

「何もかんも失って、一から出直しや。また商売をやるで!」
「おう、バンバン儲けるで!」

講和がなって一番喜んだのは、京都の商人たちでした。

戦争終結

ただしこれは大将同士の講和にすぎず、戦はまだ終わりませんでした。

大将同士はすでに講和しましたので、以後、西軍は畠山義就と大内政弘が中心メンバーとなります。

西軍の大内政弘は兵を引かず、膠着状態の中、あくまで東軍と戦い続けました。大内は、周防・長門・石見などの中国西部・それに九州北部の守護職を幕府に認めさせるまでは、兵を引くつもりはありませんでした。

また、畠山政長・義就の家督争いも、ダラダラと続いていました。各地で小規模な戦闘が繰り返されました。

しかし2年経ち3年経つと、さすがに疲れてきたのか、大内政弘は本国周防に引きあげます。一説には、日野富子との間で密約が成立したためとも言われます。つづいて畠山義就も本国河内に引き上げました。こうして文明9年(1477)11月。11年間にわたった応仁・文明の乱は終結しました。

11年も続いた応仁の乱のもたらした影響は何だったか?第一に言えることは、「既存の権威の失墜」です。将軍、守護、荘園領主といった、これまでの権威は失墜しました。ただでさえ力を失ってきた足利将軍家の権威はすっかり地に落ちました。

一方、国人や地侍といった、これまで抑圧されてきた階級が、力を伸ばしていったことが挙げられます。彼らはやがて守護を倒しみずからが守護になったりして、下剋上を行い、戦国時代のさきがけとなっていきます。

次回「山城国一揆」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永

スポンサーリンク