応仁の乱(二)細川勝元と山名宗全

西軍・東軍 京都に集結

御霊合戦の後はしばらくは目立った合戦も起こらず、平和な日々が続きました。

応仁元年(1467)3月3日。上巳の節句に諸大名は室町の将軍邸に参賀しました。山名宗全以下、3000人が参加し、華やかな席となりました。ところが、

「おや、細川勝元殿のお姿が見えぬが…」
「ああ細川勝元殿なら、国元で兵を集めているとか。もっぱらの噂ですよ。」
「なんと、ではいよいよ細川殿と山名殿で戦ですか…ああ恐ろしい」

ついで諸大名は今出川の足利義視邸に参賀しますが、そこにも細川勝元の姿はありませんでした。山名宗全は確信します。

「やはり、細川勝元は兵を上げる気だ。もはや戦は避けられぬ」

応仁元年(1467)5月。細川勝元・山名宗全はそれぞれ京都に兵を終結させます。

細川勝元は室町第と北大路の細川勝元邸を中心に陣をしきます。一方、山名宗全は五辻通大宮(いつつじとおりおおみや)東の山名宗全邸を中心に陣をしきます。この時の布陣から細川勝元派を東軍、山名宗全派を西軍といい、西陣の地名が生まれたのも、ここからです。

『応仁記』には、東軍16万1500余騎、西軍11万6千余騎とあります。

細川勝元と山名宗全

東軍の総帥細川勝元はこの年38歳。管領を二度務めたベテランです。細川氏は細川頼之が三代将軍義満の管領を務めて以来、足利政権下で重く用いられてきました。その子孫たる細川勝元はしたたかで頭がキレる男でした。

若い頃ライバル関係にあった畠山持国と対抗するため、幕府の実力者山名宗全の娘を妻に迎え、またその息子を養子にし、山名一族と結びつきを強めました。しかし、今度はその山名一族が強くなりすぎると、嘉吉の乱で滅ぼされていた赤松家を再興し山名氏への対抗馬とし、実子が生まれると養子に迎えていた山名宗全の息子を仏門に入れてしまうという、抜け目めなさでした。

また細川勝元はすぐれた文化人・教養人でもありました。禅に深く帰依し、石庭で有名な竜安寺を築いたことはよく知られています。

一方、西軍の大将山名宗全はこの年64歳。俗名を山名持豊といい、すでに家督は息子に譲っていましたが、権勢欲はいよいよ盛んでした。体は大きく赤ら顔で、「赤入道」の異名を取っていました。

山名氏はかつて山陽道を中心に十一ケ国を所有する大勢力を誇りましたが、明徳の乱で足利義満の挑発に乗り、所領を3ケ国まで減らされました。その後、六代将軍足利義教を暗殺した赤松氏を山名宗全が討伐し(嘉吉の乱)、その功績により八か国を所有するまでに回復させました。やり手です。

細川勝元が生粋の名門出身であるのに対し、山名宗全は叩き上げの苦労人タイプといえます。対照的な二人でした。

緒戦

「攻め込めーーーーっ」

ドカカドカカドカカドカカーーー

5月26日未明、細川勢(東軍)が山名勢(西軍)の陣地に攻め寄せます。ついに合戦の火ぶたが切って落とされました。翌27日、28日と戦は続きました。知恩寺・行願寺・窪寺・誓願寺・成菩提寺はじめ、多くの貴族の邸宅が炎上しました。結果は山名勢(西軍)にやや有利に終わります。

5月28日。将軍足利義政は、細川勝元・山名宗全双方に使いを出します。

「これ以上争ってはならぬ。都を火の海にするつもりか!」

しかしその一方で義政はわが身を守ることも忘れていませんでした。伊勢に下っていた伊勢貞親に使いを出し、軍勢を率いて上洛するよう促しました。細川勝元・山名宗全の間で合戦が長引いた時、わが身を守るのに独自の軍事力が必要と考えたのです。

東軍、大義名分を得る

当初、足利義政は細川勝元、山名宗全のどちらにも肩入れしない考えでした。しかしそうも言っていられなくなりました。6月に入って、足利義政は細川勝元と足利義視に山名宗全討伐を命じます。

「あなた、そんな山名宗全殿を敵に回すなんて!私は反対です」

義政の妻・日野富子は猛反発します。日野富子はわが子義尚を将軍の位につけるため、後見人として山名宗全を頼んでいました。その縁があるので、日野富子には山名宗全を敵に回すなど、とんでもない話でした。しかし細川勝元は乗り気でした。

「殿、ようやくご決断くださいましたか!逆賊山名宗全を、必ずや討ち滅ぼしてくれましょう」

「う…うむ。まあ、ほどほどにな」

という感じで、とうとう足利義政は将軍の本陣に立てる旗(牙旗)を、細川勝元に授けました。6月3日のことでした。かくして、畠山政長と畠山義就の私闘にすぎなかった戦が、将軍派と反将軍派の全面戦争へと、その性質を変えたのです。

足利義視は東軍の大将として、西軍を攻撃します。

「大義は我らにあり。攻めろ」

ワアーーーッ

6月8日の戦闘は東軍の勝利に終わりました。

「よし。これで西軍はゆらいだかな」

そう判断した義政は、西軍の諸将に降伏をすすめる書状を届けます。動揺して西軍から東軍に寝返る者あり、国元に帰る者あり。たしかに西軍には一定のダメージとなりました。勢いを得た東軍は西軍諸将の屋敷を焼き払います。

ゴオーーーーーッ

わあーーっ。きゃあーーーっ。

広がる炎。逃げまどう京都市民。この合戦で、洛中のほとんどが炎に包まれました。

大内政弘参戦

合戦は当初、大義名分を得た東軍の有利に進みました。西軍はおされぎみでした。しかし、周防の大内政弘が西軍方として参戦すると状況が一変します。8月23日。大内政弘は東寺に入り、下京あたりに火を放ちました。


大内政弘参戦

「ひ、ひいい大内政弘の軍勢だ」
「かなわぬ」

一転して東軍が押される立場となりました。東軍の中にはかなわぬと見て西軍に内通する者が増えました。

上皇天皇 室町第へ

東軍の大将細川勝元は、天皇上皇が西軍に利用されることを恐れました。そこで後花園上皇の仙洞御所と後土御門天皇の内裏に使者を出します。

「戦が長引き仙洞御所も内裏も危のうございます。室町第へお遷りください」

「うむ。細川勝元のもとにか…」

こうして細川勝元の東軍は、将軍足利義政に加えて後花園上皇・後土御門天皇をも確保しました。いよいよ官軍としての形が整いました。しかし兵力としては西軍のほうが勝っていました。

足利義視 伊勢へ

足利義視は山名宗全の西軍が意外にも強いことに当惑していました。もしかしたら兄上は山名宗全に内通しているのではないか?少なくとも日野富子が内通していることは間違いない。このまま細川方にいたらメンドウなことになりそうだ。

そう考えた足利義視は、ひそかに室町第を抜け出し、まず比叡山坂本へ。ついで伊勢に逃れ、伊勢の国司の保護を求めました。

相国寺炎上

「攻め立てろーーーーっ」

ドカカドカカドカカドカカーーー

大内政弘の参戦で勢いを得た西軍は、ここぞと東軍を攻めます。9月1日、東軍の拠点土御門万里小路の三宝院が炎上。9月13日。西軍の大将山名宗全が東軍の大将細川勝元邸を攻撃。9月18日南禅寺炎上。

10月3日。西軍は室町第に隣接する相国寺に火を放ちます。相国寺は足利義満が創建した臨在宗の寺院で、足利家とは深いつながりがあります。その時将軍足利義政は室町第で侍女をはべらせ酒を飲んでいました。

「あれ、御所さま、お隣の相国寺が燃えています!!」

「ははは、燃えろ燃えろ。どいつもこいつも将軍の言うことを聞かぬ…。勝手に燃えてしまえ!」

義政の態度

このように足利義政は応仁の乱に対して、徹底した無責任をつらぬきました。大乱勃発当初は細川勝元、山名宗全双方に使いを立て、戦を止めようとしましたが、次第にその気力も失せていったようです。バカ同士、勝手に争わせておけ。民が死んでいる?寺が燃えている?それがどうした。そんな感じでした。

次回「応仁の乱(三)大乱終結」に続きます。

解説:左大臣光永

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