八代将軍 足利義政

足利義政というと、何ですか?真っ先に出てくることは。そう、銀閣寺。修学旅行で尋ねた銀閣寺ではないでしょうか。東山山荘銀閣をはじめとして足利義政の築いた東山文化は、今日まで日本人の美意識の根幹をなして連綿と生き続けています。

一方で義政は政治家としては無能・無責任の極みであり、応仁の乱が延々11年も長引いたのは義政の優柔不断さにその原因の一端がありました。

政治化としては無能・無責任。芸術愛好家としては妥協を知らず、完璧な美の世界を求めた八代将軍足利義政。その複雑な個性をさぐっていきます。

足利義政の将軍就任

嘉吉3年(1443)7代将軍足利義勝が10歳で亡くなると、弟の義政が8歳で8代将軍に就任しました。

足利義政
足利義政

「将軍といっても、世は何をしたらよいのじゃ?」

「何も心配ございません。御所さま。すべて私たちが取り計らいますので」

足利義政の将軍就任を強く後押したのが管領畠山持国です。また義政の母日野重子も幕府内で権力を持っており、義政の将軍就任に力を尽くしました。

三種の神器持ち出し

義政の治世は、いきなり不吉な事件から始まります。義政の将軍就任の二か月後、三・四十人の暴徒が内裏に乱入します。

「我々は南朝の後胤・尊秀王(そんしゅうおう)をかつぐもの!不当に奪い去られた神器をもらいうける」

暴徒は三種の神器のうち宝剣と神璽をうばい、比叡山に逃れました。大変だっ。すぐに討手を!すぐに討手を差し向けて、首謀者の首を討ち、宝剣は持ち帰りましたが、神璽はすでに持ち去られた後でした。以後、10年ばかり神璽は南朝方に渡ったままでした。

それにしても…南朝ですよ。」

足利義満が南北朝を合一したのが明徳3年(1392)。それからもう50年以上経っているのに、まだ、南朝の亡霊は世を脅かしていたのです。そして南朝の亡霊は、後日、応仁の乱のさなか、また違う形であらわれれます。

足利義政 その人物

足利義政は武芸にはまったく関心がなく、能・建築・茶の湯・和歌・連歌などの貴族的趣味を好みました。物腰はやわらかで、思いやりがあり、女性をひきつける魅力がありました。

当時のある禅僧は義政を評して「温恭和順」の徳あり、と言っています。しかし優柔不断で、祖父義満や父義教のように強いリーダーシップで人を導くというタイプとは正反対でした。

細川勝元の管領就任

足利義政の新体制下では、はじめ管領の畠山持国が権力を握っていました。

「今度の御所さまは、まだ幼い。今のうちに畠山家に都合のいいことを吹き込んでおけば。ふふふ…畠山家の将来は安泰じゃわい」

そんな感じでニヤついていたでしょうね。

しかし、畠山持国の天下は長く続きませんでした。敵対する細川勝元がしだいに権力をうかがいます。細川勝元は畠山持国と対抗するにあたって、幕府の有力者山名宗全と手を結びます。山名宗全の娘を妻とし、また山名宗全の息子を養子としたのです。細川勝元は有力者山名宗全と結ぶことで、敵対する畠山持国と対抗しました。

細川勝元と山名宗全
細川勝元と山名宗全

こうして文安元年(1445)畠山持国は失脚し、15歳の細川勝元が新しい管領に就任します。その後ろ盾をつとめるのは義理の父である、山名宗全です。

「細川殿、われら山名一族がいる限り、畠山などにでかい顔はさせません」

「はっ…それはもう、今後とも、よしなに」

しかし、細川勝元と山名宗全との蜜月時代は長くは続かず、やがて始まる応仁の乱の火種となっていきます。

乳母 今参局

少年時代の義政にもっとも大きな影響を与えたのが乳母である今参局です。義満の代から近習として仕えた名門大館氏の娘です。子供の頃から義政は今参局にべったりでした。

「御今、世は御今のことを好いておるぞ」
「殿、御今はうれしゅうございます」
「今に大人になったら、御今といっしょになれるだろうか」
「殿、もちろんでございます。そのためには立派な殿方として…」
「あっ…御今、何を、あっ、くっ」

そんなふうに、今参局は義政に性の手ほどきまで行ったようです。「ああ…なんて気持ちいいんだ。こんなことが、世の中にあったなんて!」義政はますます今参に夢中になります。

義政の母・日野重子はその状況を「まずい」と見ます。今参が、そのうちつけあがってくるんじゃないかと。

重子が心配した通り、義政が成長するに随って、今参は何かと政治に口を出すようになります。

「義政、何を考えているのじゃ。この一件は明らかに不公平です。世が乱れる元ですよ」
「そうです殿、今一度、お考えください」
「うん…じゃがのう…御今がそうせよと申すからのう…」
「また御今ですか!御今御今御今御今…」

三人の「魔」

こんな感じで、義政は御今こと今参局の言いなりでした。その他、義政の側近である有馬持家、烏丸資任を加えた三人が、義政のそばにあって政治を好き勝手に操っていました。

この頃、京都都大路に名も無き市民の声が掲げられました。

「今の政治は三人の「魔」に操られている。御今、烏丸、有馬である」

おいま、からすま、ありまを魔物の「魔」として、ロクでもない三人に政治がのっとられているさまを言ったものです。

その他、義政の教育係である政所執事・伊勢貞親(いせさだちか)も、権勢をふるいました。

日野富子との結婚

義政の母・日野重子は、今参局と義政の側近たちに政治が牛耳られているさまを、マズイと見ます。

「とにかく義政の関心を今参から遠ざけなくては。そのためにはそう。結婚。それが一番です」

康正(こうしょう)元年(1455)、重子の甥の娘である日野富子が選ばれ、義政の妻に迎えられました。「殿、よろしくお願いいたします」「あ、ああ、こちらこそよろしく」この時義政19歳、日野富子15歳。

足利家と日野家
足利家と日野家

自分の親族である日野富子を義政の妻に迎えたことに重子は満足でした。

「でもまだ安心できない。義政は若いのだから、新妻だけでは満足できないでしょう」

そこで側室として、今参と同じ大舘氏の娘を迎えました。

今参局の末路

長禄3年(1459)、日野富子は最初の子を産みました。しかし、その子は生後間もなく死にます。悲しみにくれる義政・日野富子夫婦。ところが、

「子供が死んだのは、今参局が呪詛したのだ」という噂が立ちます。

義政の母・日野重子はこの噂を聞いて、義政に言います。

「義政、世間の噂をききましたか。あの子が死んだのは、今参局が呪詛したのですよ」

「ええっ!御今が?まさか、そんなことはないでしょう」

「なにがまさかじゃ!間違いないことです!今こそ御今を追放するのです」

「しかし、ううん…どうかなあ」

「早くなさい!!」

「はっ、はい!」

よく事実確認もしないまま、今参は捕らえられ、琵琶湖の沖の島に島流しにされました。この頃は今参はすっかり老けて容貌も衰えていました。それで義政は愛情も失せていたんでしょうか。昔のよしみで許してやろうとか、ちゃんと裁判をといった、そんな考えはありませんでした。今参は四日後に死にました。溺死させられたとも、自ら死を選んだとも言われます。

今参局の怨霊

今参の死後、日野重子と日野富子は今参の怨霊に悩まされました。

「よくも私を見殺しに…思い知れ…」

がーっと首をしめにかかる今参の怨霊。

「ああーーーっ!」

汗びっしょりになって目覚める日野富子。「やはり御今は、無実だったのかもしれない…」そこで今参局の追善供養をして、京都に今参局の霊をなぐさめる社を建立しました。

次回「足利義政と長禄の飢饉」に続きます。

解説:左大臣光永

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